December 04, 2005

Take me down, to the paradise city

十数年振りくらいに、マジメに筋肉少女帯を聴いてみた。
リンドバーグⅡのあの曲、あの歌詞がどうしても気に懸かって、街のレコードショップを廻る。
アクセル・ローズ見たさに、ガンズのミュージック・ビデオを探しまくっちまった。
佐野元春に久々に涙してしまう。もちろん、「ロックンロール・ナイト」で。

少しばかり早足だったけど、あれやこれや、僕は十年前を歩き回った。路上を、そして、夢の中を。
聴いた上で、「これが仕事に使えるか?役立つか?」などという問いが、とんと出てくる気配のない自分が誇らしかった。これで良いんだ。

Life is comin' Back!

僕の住む街は、夜でも喧騒が絶えなくて、それは深夜まで煌々と、エスニック・ディッシュの店灯りから漏れる賑わいからも明らかなんだけど、それを見るにつけ、自分がこの街にいる正しさを確認するような気にもなる。
時は得てして残酷だけど、優しいところもあるじゃん、と思う瞬間。

ゆず紅茶に心は温まるけれど、僕には喉を軋ませるコカ・コーラのほうが、未だ、良い。
Avril Lavigneの"My Hapy Ending"に、訳もなく、涙が出そうだ。

まだ、始まってない、これで良いんだ。

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August 14, 2005

Life belongs to memory

中学生の頃、司馬遼太郎の「燃えよ剣」を読んだ僕は、すっかり新選組に、土方歳三にノボせあがってしまった。「漢(おとこ)」たるもの、「武士(もののふ)」たるもの、かくあるべし、とね。

当時、僕が解らなかったエピソードがある。
薩長との鳥羽伏見の戦いを前にわずかの休息日。鬼の副長として恐れられていた土方が、隊士に向かって言う(台詞は甚だウロ覚えですが・・・)。

「諸君、私に3日、休みをくれ。私には女がいる」

歳三は以前より相思相愛だったお雪と旅をし、3日間の「夫婦ごっこ」を楽しむ。

中坊の僕に、こんな男と女のエピソードなど解る訳もなかったが、後年、これはとても美しい場面だと思うようになった。非常にドラマティックだし、刹那に生きる男の美学としては、こんな恋愛にこそ憧れるもんだ。

が、知人はこういう。「司馬遼太郎的な女性観はどうも、好きじゃない」

続きを想像してみる。
刹那の夫婦ごっこを楽しんだ後、歳三は心おきなく死地へと赴く。転戦を重ね、北の果て函館は五稜郭で命を落とす。
一方、お雪はどうしたのだろう。歳三の訃報を聞く。そもそも、そういう男だと解っていて愛慕した訳だから、そこは諸事覚悟の上だ。しかし、その上で、たった3日間の思い出を胸に死ぬまで生きていける。武士の妻とはそうしたものだ。
・・・とでも司馬先生はお考えなのだろう。

ある意味で、男性側から一方的な理想の女性像を押し付けているのかも知れない。それにそもそも、どんなに美しく描いても、ひどく残酷な事実ではある。現実は、男と女は、こんなもんじゃなかろう。
みじめったらしくて、未練がましくて、せいぜい精一杯格好を付けて、お互いの臓物を曝け出し合って、老いや病や煩悶に向き合い、、、そんなもんじゃないの?

思い出があるから生きていける。

ああ、確かにそうかも知れないね。だけど、逃げ込む先が思い出しか無いのだとしたら、そんなに残酷でつまんない仕打ちはない。目をつむって、また開いて、それで何の景色が変わるんだ?酒呑んで、紛らして、酔いが醒めたら人生は何か変わってるのか?

抜け殻のように思い出にしがみ付くなんて、それがたとい女の人生であっても、男の人生であっても、僕はごめんだ。

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August 05, 2005

書けるまでの時間

悲しみにうなだれる 君を前にして
そうさ何も出来ないでいるのが とてもつらい
せめて君の為に 歌を書きたいけど
もどかしい想いは うまく歌にならない

今 書きとめたい歌
君に捧げる ラブ・ソング

 -岡林信康「君に捧げるラブ・ソング」 

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午前3時過ぎの溜息。
何かを書きたいんだけど、書くためには整理することが多くって、なかなかキーボードを打つ手が進まない。

書くというある種の生産活動に真面目に取り組むなら、
気が狂うことも辞さないくらいの気概が必要らしいのだが、なにぶん、浮気な性分なのか、一つ事に狂うほどには熱中も出来ないし、そもそも狂うような性質でもない。

・・・だけれども、書きたい。

順序が逆だけど、いま、狂っちゃおっかな。
編み上がったマフラーの糸がほどける様に、冷えた紅茶をも一度温め直すように。

午前3時には素直な自分が居る。

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June 26, 2005

遅れてきた「私」

オトコたる者、人間たる者、何某かの痕跡を世に残さねばならぬもの、と思っていた。

・・・この表現は過去形だ。
僕は小中高校時代を通じて、その時間のほとんどを生徒会活動に捧げていた。いわゆる「公共」の概念が人一倍強かったように思う。
今となってはよく覚えてないのだが、テレビで政治と代議士を扱ったドラマをやっていた。当時小学生だった僕は、何処か思うところがあったのだろう、奇しくもそのドラマの翌日に有った学級委員長選挙に立候補した。どちらかというと人の後ろに回りたがる自分を、どこか変えたい、と思ってたような気がする。無選挙で委員長になった。
中学は、マンモス校だった。昼休みになるとタスキを掛けて、全クラスを回る。2週間の選挙活動だ。1500名の前でのスピーチ、48名立候補して10名が生徒会役員に当選する。なかなかの難関だ。
お蔭様で、生徒会役員時代、僕はほとんどの集会を参加者側で見たことが無かった。文化祭や体育祭、僕はたいていの場合、舞台正面で何が起きているかを観たことが無かったように思う。

僕は何か何処か、「他人のために汗を掻きたい」と思って生きてきた。それがどんなにワザとらしく自己満足だとしても。

浪人生活を余儀なくされる中で、僕はすっかり内向きになっていた。
一人暮らしのアパートに戻ってきて、しおれた花になんとなく水をやる日々。やがて大学生になり、ひとと付き合い、友人と語らう中で、如何に「私」というものの存在を考えることが大事かと思いはじめた。

「修身斉家治国平天下」

己を築けて居ないうちから、天下国家のことを考えたって、しょうもないんだ。

時は流れて、いま、三十路になった。僕はまだ、自分の近くに居る誰をも、幸せにしていない。遅れてきた「私」はまだまだ、僕の中では十分に育ち得ていない。随分と遠回りをしてきたものだと思う。

そしてもうしばらくは、小学生中学生のあの頃抱いた気持ちは、取り戻せないのだろうな、と。しかして僕自身は、こんなウジったれた自分が嫌いじゃ、ない。もっともっと、変わりたいとは、思うけどね。

・・・ずいぶん、こっぱずかしいブログを、書いちまった。

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June 12, 2005

浮世にこそ、華あれかし

だいたい、何だってんだよ、深夜のあの時間に。

思わず、クレジットカード番号を入力して買っちまったのは、昔懐かしい曲を集めたCDコレクション。ふっと家に帰ってきて点けた通販番組、どの曲も微妙に懐かしく、酒で酔いどれた頭では是非も無く買ってしまう他なかった。

どうなんだろう、深夜の通販番組でやたら売っている名曲CD選集が商売足りうるのは、購入する側を、思い出や懐かしさのシャブ漬け状態にしておいて、買わせるってことなんじゃないだろうか。僕はそれに、まんまと引っかかってしまったわけで。。

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今年のゴールデンウィークは、十年前に住んでいた街を歩く機会が有った。
地方都市の十年の変化は、東京のそれよりも顕著に見て取れる気がする。変わったもの、変わらないもの。街を歩きながら、iPodは思い出のメロディーをエンドレスで流している。思い出に浸るお膳立ては、すっかり整った。
思い出の欠片が、五感を通じて僕に入って来るのを待つばかり。

・・・だけど、不思議だ。何も懐かしくなんてない。

五感は最大に研ぎ澄ましたつもりだった。けれど、歩けども、歩けども、刮目すれども、舌の先ですら僕は懐かしさを解れなくなっていた。

ノスタルジーを理解できない不感症ぶりに、僕自身、若干の辟易を感じつつ。しかし、「まだまだ俺はやれる」と妙な確信にも満たされた瞬間だった。

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虚勢じゃない、強弁じゃない。昔なんて過去なんて、せいぜい楽曲の中にしか存在しないんですよ。探したって、もう何もないんだから、そこには。主人公が不在のドラマなんて、見ても何も感じ取れるわけないだろう。

浮世にこそ、華あれかし。

この身は地上に落つるとも、僕は、久米の仙人にこそ、憧れる。

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May 22, 2005

老いへの願望

自分の若さが、青さが、時折恨めしくなる。

三十にして、いけしゃあしゃあと「若さ」などと言っていたら、ネット上にうごめく十五の好奇心たちからは嗤われることだろう。けど、それでも、己の若き故に付随する様々な欲望や想いの一片が、恨めしく思える瞬間がある。

早く、早く、歳を取りたい。

いますぐ歳を取ったならば、失うものも多かろう。眼は霞み、耳は遠くなり、肌艶は消えて、足腰はたたなくなる。それでも、それでも、歳を取りたい。いま自分の心を支配する様々な苦しみやジレンマも、きっとなんでも無くなるだろうから。
梅でも見ながら、いつか心底の静謐が得られる日が来ることを、待ち詫びている。

けど実際には、歳を取るごとに欲望や怨念は澱のように滞っていくのだろう。そう、畢竟、欲望はヒトを突き動かすガソリンなのであります。どんなに否定しても、否定しても、否定したい欲が残ることには違いない。

・・・人間をやるってことは、とかく難しい。

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April 30, 2005

オトナのやり口

蟻の行列ばかりを眺めていた昆虫博士・ヒデちゃん、鼻水を拭くもんだからいつも袖がピカピカだったタイちゃん、頼りない兄貴を支えるしっかり者の妹・ユカちゃん、小学生に入る頃の僕らはいつもつるんでいた。それはまるで20世紀少年のようだった。

隣町に抜ける竹薮から、ちょっとばかし脇に入った崖の裏に、僕らのひみつ基地は有った。小学校が終わるとすぐに、親や近所の小うるさいオバちゃん連中にバレないように段ボールやマンガ雑誌を山ほど抱えては、夕暮れまで時間を過ごしたものだった。
が、至福のときは続かない。折しもバブル経済前の時期、ほどなく僕らのひみつ基地も含めて、一帯は再開発の対象になった。近くにはショッピングセンターが進出した。子供向けの遊戯場やらゲームセンターに僕らが虜になるのにそう時間は掛からなかった。そして、ひみつ基地は名実ともに、存在意義を無くしてしまった。

自分たちで創意工夫しながら楽しくやっている場所を、オトナは平気で荒らしに来る。
いつの時代もそうだ。

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僕は前々からNiftyユーザーなので、何の気なしにココログを使っている。こう言っちゃあ誤解を招くかも知れないが、ココログユーザーのコラムは面白い気がする。眞鍋かをり伊原剛志木村剛なんかも面白いことを書くなあ・・・と毎回グッときてしまう。著名人だけでなく、一般ユーザーのブログもこれまた凄く面白い。
・・・と色々紹介すると枚挙に暇が無くなってしまうが、まあ、古くはNIFTY-Serveやフォーラムを使っていたようなユーザーも居り、そもそも「表現」ということへの感度が高いひとが多かったのかも知れない。

そんなニフティは、昨年末にココログブックス・コンテストを開催することになった。そりゃあ、大抵のひとは、「あなたのブログが書籍になって、店頭に並びます」なんて甘言囁かれたら、目の色が変わります。そこまで興奮しないかも知れないけど、多少は期待しちゃうもんでしょ。
ところが選考過程やアフターケア等々も含めてニフティサイドへの不信感が募ることとなり、結果的には幾つかの優良なブログが閉鎖、移転ということになってしまった。

僕もそうだが、こうしてブログを書いている以上、何かしらを他者に伝えたいという願望がある。じゃなきゃ、自分ひとりで見る手帳にでもメモすりゃあ良いんだし。ひとの中に眠っている欲望をわざわざ引っぱり出すような真似をする以上、オトナはきちんとその落とし前をつけなくてはならないのだと思う。

「人気ブログには賞金を」「優良なブログは書籍に」

インターネットの功罪なのかも知れないけど、こういう個人の情報発信の商用化や、留まらないアフィリエイト・ブーム、なんというか、拝金主義のベールはこの国を何処まで包むのだろうね。

ああ、怖い怖い。

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April 17, 2005

未知との遭遇、過去との邂逅

(また過去についてのクドクドか!というお叱りは感じつつも・・・)
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対峙せぬ方が良い過去ってのが有る。

日々の彩りが鮮やかになるのも色褪せちまうのも、自分の意識次第だし、ひとは幾度だってそこから這い上がろう変わろうとする意図が有れば、何者にだって成れるはずだと思う。その深淵を覗こうともしないで、シタリ顔で腕を組んでても、布団被ってても、日々なんて何も変わらない。

現在を懸命に生きる覚悟を決めたひとにとって、自分が過去認定した場に生きる人間に会うのは止した方がいい、と思う。
それが意図的な出会いならばまず避けるべきだし、邂逅としてもあまりよろしくはない。現在を生きる覚悟のある人間にとって、過去は足枷のように自分を規定したがるものである。過去は回想の中に有るから美しいのに、出会ってしまえば現在のありようを損なうことにも成りかねない。

これについては、マキアベリの言葉をそっくり引用した方がいいのかも知れない。
「運命は時代を変転させるのに、人間たちは自分の態度にこだわり続けるから、双方が合致しているあいだは幸運に恵まれるが、合致しなくなるや、不運になってしまう。
私としてはけれどもこう判断しておく。すなわち、慎重であるよりは果敢であるほうがまだ良い。なぜならば、運命は女だから、そして彼女を組み伏せようとするならば、彼女を叩いてでも自分のものにする必要があるから。」(「君主論」運命は人事においてどれほどの力をもつのか、またどのようにしてこれに逆らうべきか)

話は脱線するが、老いってやつも人間にとっては、「衰え」ではなくて「進化」の一形態なのかも知れない。
ラマルクは進化の方向性を、単純な生物から複雑な生物へと常に一定の発展を遂げると考えたが、老いにより思索やモノの捉え方は一見固着化単純化するようでいて、その実、複雑な視点や決定のための諸要素が収斂されたと考えれば、これすなわち「進化」ということではないのだろうか。

・・・ガラにもなく、難しいことを書きすぎちまった。らしくないな。ということで、悪文をこれ以上連ねるのは止めにして、有名な歌の一節を以って纏めとしたい。つまり、

五番街で噂を聞いて もしも嫁に行って
いまがとても幸せなら 寄らずに欲しい

「五番街のマリーへ」

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April 11, 2005

君子も淑女も、ときには過去から逃げよ

思えば、僕ほど過去に拘ったブログ書きも中々居ないのではないだろうか。
真面目に数えたことは無いけれど、小生ブログの単語使用頻度の上位は「過去」「ルサンチマン」「変化」辺りで埋め尽くされているんだろうなあ・・・。低温の魅力?いえいえ根が暗いだけですよって。

さて、以前に「過去はたたかいの対象」であるということを述べた。
(⇒ご参照

もう少し付け足せば、これはどちらかと言うと、「自分が主体となって生産した、内心の持ちようで処理できる『過去』」というべきなのかな、と最近思う。過去は己が累々と築いてきたものであるから、己がある方向にシフトしたい・変わりたいという意思が有れば、「闘う」という選択肢は至極まっとうだと思ったからだ。
「闘う」なんて大仰な言葉を使ったけど、ほんの少しだけ自分の習慣を変えてみることや、新たな試みに首を突っ込んでみるだけでも立派な闘いだと思う。澱のように積み重ねた過去には、ボディブローで応酬だ。

とはいえ、「過去」は己一身で構築したものではない。

自分にとって重要な影響を及ぼす、空間や人間や事物がある。これを「対象としての『過去』」と仮に呼ぶならば、その「過去」からはどうすれば良いのか?「闘う」ことが必ずしも最良の策で無い場合がある。僕がここで考えたのは「逃げる」という策。

己が対象に直面して、十分に耐え得る地力を持ち得てないと思われる時には、闘わぬこともまた立派な策足り得る。無為ということではない、積極的に「逃げる」ということだ。

一個の人間が「変わる」という事には、或は「変わりたい」という意思には、時には他の何某かの阻害や精神的な圧力状況に遭うことも想定せねばならない。僕らが其処に対して真っ向から勝負を挑んで、どれだけの果実が得られるのだろうか。決めないこと、そして逃げることも立派な手だと僕は思う。そして自分に言い聞かす。

・・・時には、逃げよう。

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April 01, 2005

今日をこえて

くよくよするのは もうやめさ
今日は 昨日をこえている

***

僕らが超克すべきこそ、過去。
けれど、深夜27時の鐘の鳴る頃、平静な気分じゃ居られなくなる。

この世に生きとし生きるなら、塵芥のようなものまで含めて多かれ少なかれ、様々な過去に絡め取られながら生きることになる。花は種子に、息子は父親に、娘は母親に、生者は死者に、己は経験に・・・。簡単に超克できないからこそ、過去は過去たる所以がある。ひとの一生なんて、或いは、積み上げた河原の石が誰かしらに蹴られる僥倖を待つプロジェクト(企み)なのかも知れない。

そういう意味でも、過去は時間の単純な積算ではなく、質量なのだ。

職業柄かも知れないが、ひとが過去に対しどのように折り合いづけ(少なくともその事による窮境から脱して)、次なる歩を踏み出せるかということに非常なる興味がある。甚だ私見だが、これは生存活動の上で最も苦しく難しいたたかいの一つではないかと思う。
過去は己が創ったものでありながら、頑なまでに、今日を明日を生きる力を奪おうとする瞬間がある。厄介なことに、観念は常に身に付随するもので、まなこを開いている限りは己に迫り続ける。場合によっては夢にまで登場する。

しかし、たたかわなければならないのだろう、詰まるところ。
これは勝ち負けの結果を求める為ではなく、戦うことでしか、次なる過去をこれまでの過去に対峙させ得ないからではないか、というのが僕の意見だ。古代ギリシャにおいて、"agon"(アゴーン:闘争・競争)が政治的にも重要な意味を持ったことと同様、ひょっとしたら、我々の生の根源には過去とたたかう仕組みがプログラムされているのではないだろうか、なんて思っている。

日常では別段、捨てる必要も克つ必要も感じないが、それでも、過去という名の底無し沼に生きざるを得ないカンダタ達に、スプーン一匙でも抗う術があればと思う。
・・・僕は、たたかう。

***
あんたにゃ 解るまい
今日を乗り越えて
明日に生きることなんか

-岡林信康「今日をこえて」(アルバム『見るまえに跳べ』より)

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