July 29, 2005

懐疑は踊る、されど・・・

学校教育を題材にした今期のドラマが面白い。

TBS「ドラゴン桜」と日テレ「女王の教室」である。どちらも、主人公が型破りな教育の方法論を持ち込み、生徒との対立・違和感を超克しながら達成へと向かっていく様を描いている。

重要なのは、2つのドラマに通底するメッセージである。それは大雑把に言えば、「現在の日本はもはや平等とは言えず、そのような幻想は捨てるべし。優位者に搾取・支配される側に成りたくなければ、勉強しろ!」ということである。いやはや、なんとも解りやすいアジテーションでございますこと。だけど、ある種の真理も有る。

誤解を恐れずに言えば、ひと昔前の教育は「優秀なレイバー層」を多く輩出することが求められていた。ここでは、右肩上がりの成長というある種の「大きな物語・ユートピア幻想」が支配的な空気だったわけだし、その物語に則って、誤謬無く処理できる能力こそが重要であった。実はこの構図自体も、被支配層(こういうコトバ遣いは誤解を受けそうだが・・・)から観たメリットそのもので有った。

しかし今や、物語は崩壊してしまった。

代わりに頭をもたげて来たのは、「意識的・自覚的に生きなくてはいけない」焦燥である。同時に、被支配層が代替わりを迎える中で、社会の有力なポストは新たな層の参入を認めない強固なものへと、緩々変わっている。
佐藤俊樹が「不平等社会日本」でしきりに述べているのは、こうした社会が閉塞感を生むことへの危惧だったりする。

今頃になってこういう問題をドラマで取り上げるのも、なんともマスコミの鈍感っぷりが笑える訳だが、しかし、そのメッセージを出すこと自体は重要だと思う。一方で、こういうドラマやったって、世界は変わらないという諦観も僕の中には有る。毎回ドラマの終了後には、クレームが絶えないという。いやあ、眼が開いてても、見えないものってあるんですな。
このドラマがターゲットに据えている、啓蒙(敢えて「啓発」ではなく「ケイモウ」と書きたい)したいと思っている層はまさしく、いちいち電話しちゃうような「踊らされる人々」なのだから。

あ、さて、
職場の同僚曰く、「インターネットにはある種の平等性がある」という。先に挙げた階層化する社会の中で、ある種のリベンジ・逆転をしたいなら、新興の軸・枠組みの中で戦っていくべきだということであろう。非常に明確なソリューションとしてこれを一定度、支援したい(一方でインターネット社会にも、リアルの枠組みが持ち込まれ、そこで従事する人間のプロファイルにはやはり、「selected」な人間が多いわけだが・・・)。

階層化の問題に関しては、僕もそれなりに一家言持っているつもりだし、教育が重要なキーを握るものという考えは揺るがない。だけど、まずは、今期のドラマ(制作者)のお手並みを拝見することにしておきたい。
ちょっと高踏ぶっちゃったかしら?

+++

「パンが無ければ、ケーキを食べればいいじゃないの」
 -Marie Antoinette

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June 19, 2005

図書館を持てない貴方に

緩々と、情報が僕らを蝕んでいる気がする。
インターネット社会が編み出す情報の、さらに言えば、個の持つ私の持つ心の有り様から臓物まで曝す行為を、歓迎する向きは決して少なくない。往還するものは、情報ではなく、「ヒト」そのものだ、という説。しかし、だ。

僕はそこまで楽天的には成れない。

由来、僕らの存在は目的そのもので、そこでは「情報を集積・統合」することこそ一個人が体を為す構成要件だった。
しかしどうやら、このインターネットの社会の中で、僕らのありようが情報に弄ばれ始めてきたように思う。簡単に言えば、個人のありようは「情報の通過点・編集役」としてであり、そこには個人の中で積み上げられていく何かなどというモノは存在しえないのではないか、と、ふと思った。

いや、そもそもこれまでの知の有り様こそがいびつだったのかも知れない。

無名の人工たちが十年の歳月を掛けて構築した東大寺大仏、そこには誰が何処を構築したかという欠片すら残されていない。ただ、人工の汗と苦悩は、構築された作品を通じてしか感じ取れない(凡庸な僕には、感じ取ることなど、まず無理だが)。しかし後の時代になり、高名な仏師や名工と呼ばれる人物がその作品に銘を残すようになる。
時代は、また情報が匿名だった時代へと還りつつあり、僕らの存在も相対的に希薄化している。僕はこれは、ある種の構造的暴力なのじゃないかな、と思う。匿名的で緩慢な変化は、特定的で急速な何かの前で、いつも、見過ごされる。僕らが朽ち果てた先に残るモノが、その存在を通じて出来た何がしかの作品であれば、まだ良いのかも知れないが。

既に、「内なる恍惚の図書館」を構築したならば、それは幸いというものだろう。
だけど、情報は、知るという行為自体は、恍惚や征服も有るにせよ、知ることに伴う痛みや絶望だってある。僕のような弱弱しい人間には、逃げ込むべき「内なる図書館」を持つことすら、それが絶望へと口を広げている気がする。

それでも、境界線の先に、何があるかを見ざるを得ないのが性だと思う。

誰かと接し、愛し愛され、傷付け、煩悶し、そうして『構築』する可能性に、まだ何某かの希望を捨てきれない自分が、そこには、居た。

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April 04, 2005

知識人共を嗤う

そもそも、山の登り方が違うんだと思う。奴等とは。

職業柄、なんて言うとそれだけで誤解を受けそうだが、戦略コンサルタントの世界は「ロジック」だ「智」だというコトバで溢れている。まあそもそも、カタカナ商売っていう時点で世間様にとってはある種の胡散臭さが有る訳であり、また、その胡散臭さこそが「未だ辞書では定義し得ない商売やっている」ことの矜持に繋がる訳だが。。
コンサルに限らず、「知」を売り物にする商売に有って、最近ではどうしても拭い切れない懐疑心もある(自縄自縛って奴かしら・・・爆)。

コンサルタントを例にとって言えば、僕らは「問題を解決」することが仕事であり、「解に導く」ことを生業のひとつとする。けど同時に僕らはしばしばこう言う言葉を発する。
「答えはお客さん(相手自身)の中に有る」
ふっと聞けば、はなはだ無責任な言い方ではないかと感じられる面もある。ここには賛否両論が当然あるだろうが、僕は、この回答は極めて真摯なモノ言いだと思う。僕らが担保しているのは、「お客さんの問題に対して選び取れそうな未来絵図」を差し出すまでであって(勿論、その絵図にも往々にある種の意図が反映されることは有るのだが)、「最終的な意思決定や心からの納得感、実行に移す力」までもコントロールすることはそうそう出来る事ではないからである。

しかし、だからと言って解を見つける作業を忘れる事は、何よりの怠慢だと思う。
知ある人は、多くの映画や文学・哲学書を読み耽る。いや、自分もそうだ。だからと言って、その知はハッキリ言えば、何の役にも立たないことが多い。こう書くと猛反論されそうな方面も感じるので、少しだけ弁解を付け足せば、「得た知を他の何某かに生かそうという気概もなく、ただ知を吸収するのは、垂れ流されるテレビ番組を観ているに等しい」ということを自覚すべきだし、目の前の人間の苦悩に応える言葉を捜せない自分を嘆くべきだ、ということである。

そう、これは、僕自身のことを言っているつもり。
知ある者は、知を遥かに凌駕する野性の経験を持つ人々に絶えず嗤われる可能性があり、知などモノともせぬ人々から好奇の眼に晒されるピエロである。そのことを忘れて高踏ぶった知識人ほど、痛い人種は居ないとすら思う。

・・・そして僕は、自身の登る山道をすら、探しあぐねる半端者である。

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November 06, 2004

悪貨は良貨を駆逐する

「悪貨は良貨を駆逐する」(Thomas Gresham:1519-1579)
素材価値の異なる2種類の貨幣が同一の名目価値で流通するとき、素材価値の高い貨幣(良貨)が退蔵・融解されて、素材価値の低い貨幣(悪貨)だけが流通することになる。

*****

真摯に芸術の深淵を追求する知人が有る。
いささか権威主義的に傾くきらいがあって、「これはホンモノ、これはニセモノ」という真贋や優劣をつけたがるのがちと過激ではあるが、しかし、その芸術の芯を捉えたいとする姿勢には学ぶべき部分が多い。

それにしても、世の中には悪貨が溢れてしまった。あらゆる場面において。
こうしてブログを日々書いている自分も、捏造貨幣を作り続けることに加担している点では、実に心苦しい限りだが。

「現代の特徴は、凡俗な人間が、自分が凡俗であるのを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとするところにある」(オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」より)

マス・大衆の持つエネルギー自体を僕は決して否定するものではない。日本の高度経済成長期しかり、フランス革命期しかり、インドのサティアグラハ運動しかり、、時代が大きな潮流を紡ぎ変革を遂げるとき、民衆・一般市民の力なくしては成功に至らなかったと思う。ここでのポイントは、「大衆・庶民」が「市民的人間」へと生まれ変われるかどうかということなのだろうが、この点に関しての考察はいずれ別の機会に譲るとしよう。

それにしても、大衆の持つ、平凡化へのエネルギーがひとたび牙を剥いたとき、「非凡なもの、卓越したもの、個性的なもの、特別なもの、選ばれた才能をもつもの(以上、オルテガの言を借りる)」の存在は一たまりも無くなってしまうのは事実である。卑近な例を挙げてみる。

僕は「2ちゃんねる」の古参ユーザーのひとりだった。
1999年の5月末、新入社員研修の所在無い日々の中、いつもの如くネットサーフィンをしていて偶然見つける。ほとんど気にも留めずに通り過ぎるが、後日、自分の入社した会社の赤裸々な真実・裏話の暴露をたまたま見つけ、驚嘆したのを覚えている。情報の精度にも驚いたが、何よりもそこで書き込みをしている人間の持つ、書き込みへの解釈力の高さや研ぎ澄まされた語感には、『インターネット恐るべし』を感じたものだった。僕自身、濃度の高さを楽しんでいた時代でも有った。
その後、2ちゃんねるは2000年5月のネオ麦茶事件を機に、一気にマスメディアの注目を浴びる。この辺りで、2ちゃんねるを初めて知った年寄りテレビキャスターが害悪論をまことしやかに語り出す。メディアの注目を浴び、さらに表舞台に出た掲示板は肥大化し始める。

お好み焼き屋でカップルはお互いにキャッキャ言い合う。
 「食ってよし!」
 「オマエモナー!」

あの頃、とても斬新であった概念や語感も、巷間で口にされればあっと言う間に陳腐なものへと変わってしまう。
 「逝ってよし!」
 「オマエモナー!」
この掛け合いの妙や、適時性・的確性はもはや、あの掲示板では見られなくなった。おっと、このままでは生ぬるい懐古趣味みたいなことを言い出しそうだな・・・話を戻そう。

いずれの時代にせよ、そして人間一身の中にせよ、劣化や鈍化は避けられぬ現実として僕らの前に横たわる。
美はやがて色褪せ、形あるものもいつか壊れ、斬新だった概念も陳腐化し、ロックは童謡へと堕落する。これは人間が繰り返してきた営為でもある。

避けられない現実だからといって、僕は己の劣化や鈍化に手をこまねいて見ていたくはない。ある人に聞かれる。
 「かどぅさん、かどぅさんはどうしてそんなに、批判精神が旺盛なの?」と。
解らない。ただ、この時代に生きている限りにおいて、ややもすれば自分が「取り込まれて」しまいそうに感じるから、そこから逃げたいだけなのかも知れない。そのために、たたかう。最後の一人になっても、抗う。
ミイラ取りがミイラに、ミカン取りはミカンに。

・・・そして、僕は、ミイラでも、ミカンでも、ない。

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September 07, 2004

知ることから逃げるために

あるサイトで、議論勃発している状況に出くわした。
争点は非常に単純明快。いま話題の映画に関して、「思想信条上の理由で観たくない」と頑なに拒む者と、「観ないことには価値判断ができない」と観ることをしきりに勧める者。双方がお互いの立場を譲らないのだ。

そういえば、2ちゃんねるなんかで、「↑このリンクを踏んでみて。すっごいオススメ!」みたいな書き込みに騙されてリンクをクリックしては、酷い目に遭うことも決して少なくない。『好奇心、ネコを殺す(Curiosity kill the cat)』の諺の如く、知らなくてもよいことを知りたがるために、かえって墓穴に至ることもある。(←おバカです・・・)

それにしても、これだけインターネットが世の中に普及すれば、クリックひとつで世界中の映像文物にアクセスしうると言っても過言ではない(ちょっと大袈裟だけど・・・)。しぜん、我々の多くにとって、「観る」「観ない」の判断は極小化することになり、脊髄反射の要領でクリック行為をしてしまうこともまま有る。
こんな時代では、「観たくない」「知りたくない」という選択をすること自体が、なんだか間の抜けたことのように思われるのはしょうがないことだ。「知る権利」って言葉は有っても、「知りたくない権利」なんつう言葉は無い。極論すれば、知らないこととは、恥ずかしいことであり、欠落した状態を示すことであり、『知りたくない』ひとの存在なんか、構っちゃ居られない訳なのだ。

では、「知る・知らせたい」或いは「見せる・見せたい」暴力から僕らが逃れるためには、どうすればいいのか?
結論から言えば、この種の暴力から完全に逃げ隠れおおせることは不可避だと思う。悲しいけれど、それが現実。知ってしまった以上、健忘にでもならない限り、知らない以前の状態に戻ることなど出来っこないんだから。時間は元には戻らない。

けど、受容や知覚認識に際して、心の有り様で軽減させることならば、辛うじて出来なくも無い。僕の試案だけど、次の方法なんてどうだろうか?
 ①危機を察知したら、近寄らない(感度を過敏にすることでの回避)
 ②積極的に知るも、あまり深くは考えない(感性を磨耗させることでの回避)
 ③相手を、自分自身を騙す(心の持ちようを操作し、都合よく解釈する回避)
あまり良いアイデアではないけれど、この3つあたりが現実的なソリューションだと思ったりもする。

①は、ふだんより感度をなるべく過敏にして、知ることで自分が不幸になることを避けるアプローチ。もともと察しの良いひとや、習慣からの法則性を見抜けるひとならば、このアプローチが有効になるかも知れない。ただし、知っておけば良かったかな、という後悔が残る可能性は無いとは言い切れない。
②は、経験値を上げるやり方。どんなお化けも、どんな不気味さも、馴れれば怖くないの理。その個々人の経験曲線の伸び次第だとは思うが、思考の断絶性・継続性の操作力が必要になるだろう。ただし、楽しいことや悲しいことに馴れ過ぎるために、簡単なことでは感性がときめかなくなるという不毛に苛まれるかも知れない。
③は、かなり高等だと自分自身は思う。強いて言えば、楽観性や精神的タフネス(回復力の高さ)の要素が必要なのではないか?武者小路実篤の短編小説に「お目出度き人」というのがあるが、あの主人公はまさにコレ。身に降りかかる、知らずに居れば幸せな事物も、こういう人の前では意味を成さないだろう。ま、滅多には獲得できない能力だろうけどさ。

色々書いたが、この時代、いや、これから先の時代はますます、知ることからどう逃げるかが重要になるのではないかと勝手に想像している。「百聞は一見に如かず」、経験による価値の重要性をボクはまっこう否定するわけではない。しかし、せめて、ボクのような一部の臆病者や偏屈者にも、「知らない」という選択肢を残している世の中で有って欲しい。そして欲を言えば、この世の中に「知らない領域」を健全に保持する仕組みを残していて貰いたいもんだ、と思う。

・・・ゴマメの歯軋りって奴だけどね。。

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August 19, 2004

個の心性を考える-2つの軸-

前のコラムからの続き。

さきのコラムでは、公私・個集という軸で「自分」の意識を色々と考えることができるのでは、という論を紹介した。さて、人間というのはきわめて多面的な動物で、状況や組織のありように応じて、それぞれの立ち位置や心の持ちようを自在に変幻させることも必要となる。先ほどの二軸で考えると、それぞれの象限ごとに次のような心性がシンボリックに考えられるのではなかろうか。(勿論、下図に示す心性はシンボリックなものを配してあるわけで、これが全てではない)

chart2.JPG

一介の「自分」は、この軸をめぐり様々に煩悶と葛藤を繰り返す存在である。
いち個人の中でも、公人と私人の区分が難しい(例えば芸能人なんかがその好例)ことは言うまでもないが、ここでは『人格心と情緒心』の中で煩悶が起こっていると言えよう。
集団に関わる中でも、『帰属心と規律心』の葛藤もある。たとえば、企業である命令を受けた際、その命令に背くことのほうがその企業への真の忠誠を示すことになる、という場合もある。こういうときの解決法はやはり、集団における「議論」ということになろう。
己の公人性の中にも、『人格心と規律心』の衝突は起こりうる。上司の命令や周囲の期待に従うことで、自分の人格が汚されていくという場合なんかがそうではないだろうか。新撰組副長の土方が、己の真意とは別に組織内の規律を保つべく「鬼の副長」として振舞ったのなどはこれに当たるのかな、なんて思う。まあ、現代には鬼の副長も居ないわけで、こういうときには組織において「法律・ルール」が発展して不幸を避けることが一般的な解でしょう。
最後に『帰属心と情緒心』だが、人間は何処まで集団的な利益のために感情を犠牲にできるか、ということがここでのテーマだと思う。帰属心からすれば戦争に行くべきだと思っても、いち人間としては戦いで傷つくのは嫌だ。こういうときに帰属と感情の狭間でひとは煩悶する。そして、この煩悶を解決するために「道徳」は成熟する必要がある。

たまに昼間の商売の話をする僕だが、昼間の仕事で僕が所属している組織は極めてこの辺の議論が曖昧な部分もある。まあ、これはいずれの組織でもいえることなのだろうが、個々の成員が上図の象限の何処を重視し、それぞれの態様や周囲の状況に応じて、何処まで柔軟に心性を操作することが可能と考えているか、将来的にはどういう方向性を持った人物を揃えようというビジョンがあるのか。
実はけっこう、根本的な議論のはずなのだが、なかなかどうして難しい。やはり、人間の本性に関わる部分は最も解決が困難ということなのだろうか。。

またじっくり、どこかで考えてみます。

(参考:西部邁「リベラル・マインド」「保守思想のための39章」)

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外界との距離感を斟酌する

この頃では、外界との距離の取り方がますます解らなくなってきた気がする。

曲がりなりにも政治学をやってきたこともあり、「外部との関係構築」や「政治的な振る舞い」みたいなものに対して、一家言持っているように思われることもあるのだが、実はあまり人間関係の形成はうまくない。むしろ下手である。
親しいひとに対して示す発言が相手の懐中に刺さらなかったり、意図せざる方向で汲み取られたりも多々ある。実はアート(技術)としての言葉の使い方があまり上手でないのかも知れない。

さて、こういうことに思いをめぐらしているとき、ある論を思い出した。論壇の重鎮・西部邁翁の著作。
西部邁といえば、オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」に関する議論で知られている(オルテガについては僕も昔感銘を受けたことがあり、私論はいずれ何処かで披瀝したい)が、ここでは、西部翁の考察する「自分のなりたち」に関して考えようと思う。まず、次の図をご覧いただきたい。

chart1.JPG

西部は自己意識のありようを考える上で、公と私、個と集という二軸を用いている。公・私の概念軸は、道徳や法律などのルール付けと保護されるべきプライベート領域との関係を指す。学校でいう授業時間と放課後、職場でいう就業時間とアフター5と思えば解りやすい。個・集の概念軸は、ある種の慣わしや文化を強調することとインディビジュアルとしての感情へのこだわりとの関係を指す。ただ実際には、組織人として振舞うことと個人として振る舞うこと、この線引きは非常に難しい部分もあるが。

さらにはそれぞれの軸の中で個人がどういう精神構造におかれ、意味付けされるかが、思考・意識のポジショニングをする上で重要になる。続きは次のコラムで展開することにします。

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August 15, 2004

熱病からの卒業

「ノストラダムスの大予言」を本気で信じていた時代があった。
他でもない、百詩編の中の「空から恐怖の大魔王が云々・・・」というくだりのことである。いま思えば懐かしいなあ、中坊の頃。

中学生時分にノストラダムスの大予言を信じていたのには、わけがあった。
その頃の僕は、少しからず日本の戦争責任についての考えを巡らしていて、とりわけ、軍部の暴走を止めずに戦争に加担するばかりの民衆の熱狂ぶりを、どこか恐ろしく思っていた。「日本人はその本性として同質性・集団性が高いため、いったん火が点いた時には、皆が無批判に右にならってしまうような行動を取るんだ」と。
だからこそ、ノストラダムスの大予言を信じる人間によって、世紀末にはその同質性に火が点いてしまうに違いない、と思っていた。このことに警鐘を鳴らすつもりだったのか、当時は論文まで書いたことがある。ああ、中坊の頃の純粋さを思うと泣けてくる・・・。

その後、阪神・淡路大震災が起きたときのこと。被災者は海外メディアからも絶賛されるほどの落ち着きようとマナーを示した。どこの国でも通例、大都市であの規模の災害が起こったときには、騒乱やインモラルな行動が激化するものなのだそうだ。しかし、震災の被災者は、倒壊するビルの狭間でも信号を守り、食料配給の列を崩さず、ボランティアに積極的に協力を行なっていた。そのモラルの高さに感心すると同時に、一抹の薄ら寒さのようなものも感じた。
日本人はもはや、同質性を以って騒擾する民衆で無くなったという点は頼もしくも、しかし生命に対する執着心の無さと際限ない冷静さのようなものを裏側に感じ、ちょっと哀しくも思えた。

2001年9月の同時多発テロの際にも、現地でテロ災害に遭う日本人は異常とも言える冷静さを保っていた。一方のビルが攻撃を受けた直後も、ツインタワーのもう一方に居た日本人は、電話で淡々と事の状況を伝えていたのである。ここで思いは確信へと変わった。日本人はもはや、マス・ヒステリーに陥るようなことはないだろう、と。

今日は終戦記念日。
ジャーナリストの角間隆は、「日本人のマス・ヒステリーは60年周期で訪れる」などと昔書いていたが、どうだろう?
僕にはその予言も外れるような気がして、しょうがない。

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August 09, 2004

個人が政治を意識する瞬間

1989年の冬、ボクは職員室のテレビに釘付けになっていた。
授業開始のチャイムはとっくに鳴っていたが、この世紀の出来事の折、位置ベクトルだ内積だなんて更々学ぶ気にもなれなかった。

同年の6月4日、奇しくも中国の天安門事件と同日、ポーランドで「連帯」政権が樹立された。中国とは際立ったコントラストを為していた。この政権成立を皮切りに、以後、ハンガリー、東ドイツ、チェコ、ルーマニア、、とその年の冬までに東欧では連鎖的な民主主義革命が進展する。
大方の見方では、この東欧の民主主義革命は「社会主義経済の不振・構造的な破綻」が主要因とされているが、実はそれ以外にも、政治的に意味を持つものとして、次の要因が挙げられる。
 
 ①東欧諸国の指導者層の腐敗
 ②共産主義体制下での、「下からのデモクラシー文化形成」の挫折
 ③環境の悪化

①は言うまでもないが、ルーマニアのチャウシェスク大統領夫妻の処刑などが記憶にあるかも知れない。
②は特に、これら東欧国家における一党独裁や高級官僚によるエリート主義的な支配体制の中で、一般民衆の発意に基づくデモクラシーの形成が遅れてしまったということが考えられる。少なくとも、初期マルクス主義の目指すものとは方向が転換してしまい、多元的な文化のありようが否定される構造にあったことも考えられる。

そして、ここで僕が注目したいのは③の理由だ。
社会主義体制下での経済指導により、東欧は1970年代までに急速な工業化を進めたのだが、そのひずみは大きかった。1980年代の十年間に東欧、とりわけ旧チェコとハンガリーでは、工業化にともなう公害と環境悪化が深刻で、ある調査では平均寿命が十年間で5歳も縮まったという結果が出てしまった。
民衆は生命の危機を感じて環境保護運動を展開、これが母体のひとつとなって、市民運動に結びつき、やがては東欧の社会主義政権を崩壊させる原動力となったと言われている。(参考:「ラディカル・デモクラシーの地平」(千葉眞))

政治が十分に機能を果たしているとき、それは個々人の私的領域が大多数において侵害されない生活を担保されている状態だと思う。一方で、政治が機能不全に陥っているとき、それは政治が個々人の私的領域も公的領域も含めて、ある種の危害を加える可能性を持ち、もはや代表性を発現できなくなってきているときだと思う。
東欧の民主主義革命の一因は、「生命の危機」を民衆が感じたことだと先に述べた。
翻って、今の日本の僕らはどうだろう?ある政治学者は言う。「人々は、究極的には、個々人の利益・福祉が増大するとされることによってしか、私的なものに対する制限の正当性を主張することは不可能なのだ」と。
私的な領域を護るために、公的なことに敢えて取り組まなきゃいけない瞬間だってあるのかも知れないですね。僕は、次の言葉を自分への警句にしている。


「わたくしどもを奴隷にして下すってもよろしいから、どうぞ食べ物を下さいませ」(「カラマーゾフの兄弟」)

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July 12, 2004

ビジネスは思想領域への侵食を止めよ

いつからだろう、書店の棚先で「成功するビジネスマンのマキャベリ交際術」だとか「クラウゼヴィッツの戦略思考」「アリストテレスがGMを経営したら」なんて本が並び、そこそこのベストセラーになってきたのは。

有史以来、人間は自然界のあらゆる動物の中でピラミッドの頂点に立ち、下位のピラミッドのあらゆる生態系を破壊し、好き勝手にやってきた。そのツケを払うためなのか、人間はいま再び「環境保護」「生態系保護」などと申し訳程度に唱えるようになった。
いくら力があるからといって、簡単に侵食してはいけない領域がある。

さて、ホッブズは権力国家の構造的に暴力的なありようを、旧約聖書上のモンスター「リヴァイアサン」になぞらえたが、僕には、いまのビジネスの猛威はまさに「リヴァイアサン」、悪し様に言えばある種の疫病みたいなもんだと思う。ビジネスは貪欲な怪獣である。経営学じたいは成立から100年程度の日の浅い学問なのだが、自分の畑の果実を食うには飽き足らず、他の学問を侵食することすること。冒頭で述べたクラウゼビッツ、アリストテレスなどはその好例だが、放っておくとあらゆる学問領域への食指を伸ばしかねない、そんな恐怖を感じざるを得ない。
ビジネスの病の怖いところは、あらゆる可視的・不可視的なものをビジネスというフィルターを通じて見ようとするところ。業務に、出世に、明日の銭儲けに、役に立つかどうかという解り易すぎる判断基準。そして、疫病にかかると自分も同じフィルターで世の事物を見始めてしまうからこれまた怖い。

こう書いていて自分自身、ケツの穴の小さい、了見の狭いことを言ってるのかな、とも思う。ビジネスの勢いを借りて、思想や文学や歴史学だといった学問が息を吹き返すのは逆に望ましいことではないか、と。でもね、その畑だって、清貧に甘んじて糞真面目に学問を積み重ねている学者が世の中には居るですよ。僕は政治思想を学んだこともあって、特にその気持ちが強いが、まあ、儲からない学問もあるわけですよ。日がな一日、「善について」「自由について」「共生について」「民主主義について」「暴力について」・・・こんなことを頑なに考え続け、車検の切れてそうなボロい車に乗り続け、袖口の擦り切れたスーツを着ている先生を知っている。
真面目に愚直に、累々と耕し続ける学者の畑に、何の権利があって土足で踏みにじれますか?一時の疫病が去っていったあとのことを考えたことはありますか?乱獲された後はさぞ無残じゃないんですか?

裏を返せば、ビジネスは権威や伝統性が欲しくてしょうがない領域なのである。経営学じたいは100年程度の学問だから、権威と言っても知れている。だから、「マキャベリ」だ「ジョン・ロック」だ「アリストテレス」だの思想世界のビッグネームを持ってきて、ハクをつけようとする。なんだか、いじましい。

ここでこれだけ憂いてみても、時の勢いは変わらないだろう。ビジネスはこれからも思想領域を侵食し続け、際限ない乱獲を繰り返すに違いない。でも、ここで偏屈者がひとりくらい、ビジネスの側の人間として居てもいいかな、なんて思って書いてみました。。

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