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June 19, 2005

図書館を持てない貴方に

緩々と、情報が僕らを蝕んでいる気がする。
インターネット社会が編み出す情報の、さらに言えば、個の持つ私の持つ心の有り様から臓物まで曝す行為を、歓迎する向きは決して少なくない。往還するものは、情報ではなく、「ヒト」そのものだ、という説。しかし、だ。

僕はそこまで楽天的には成れない。

由来、僕らの存在は目的そのもので、そこでは「情報を集積・統合」することこそ一個人が体を為す構成要件だった。
しかしどうやら、このインターネットの社会の中で、僕らのありようが情報に弄ばれ始めてきたように思う。簡単に言えば、個人のありようは「情報の通過点・編集役」としてであり、そこには個人の中で積み上げられていく何かなどというモノは存在しえないのではないか、と、ふと思った。

いや、そもそもこれまでの知の有り様こそがいびつだったのかも知れない。

無名の人工たちが十年の歳月を掛けて構築した東大寺大仏、そこには誰が何処を構築したかという欠片すら残されていない。ただ、人工の汗と苦悩は、構築された作品を通じてしか感じ取れない(凡庸な僕には、感じ取ることなど、まず無理だが)。しかし後の時代になり、高名な仏師や名工と呼ばれる人物がその作品に銘を残すようになる。
時代は、また情報が匿名だった時代へと還りつつあり、僕らの存在も相対的に希薄化している。僕はこれは、ある種の構造的暴力なのじゃないかな、と思う。匿名的で緩慢な変化は、特定的で急速な何かの前で、いつも、見過ごされる。僕らが朽ち果てた先に残るモノが、その存在を通じて出来た何がしかの作品であれば、まだ良いのかも知れないが。

既に、「内なる恍惚の図書館」を構築したならば、それは幸いというものだろう。
だけど、情報は、知るという行為自体は、恍惚や征服も有るにせよ、知ることに伴う痛みや絶望だってある。僕のような弱弱しい人間には、逃げ込むべき「内なる図書館」を持つことすら、それが絶望へと口を広げている気がする。

それでも、境界線の先に、何があるかを見ざるを得ないのが性だと思う。

誰かと接し、愛し愛され、傷付け、煩悶し、そうして『構築』する可能性に、まだ何某かの希望を捨てきれない自分が、そこには、居た。

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Comments

おつかれ。久しぶりに読みにきました。
まあ、あれだ。結婚しろ、とりあえず。
酔った勢いで俺に電話する前に、プロポーズだろ!そこは!

Posted by: おやま | July 16, 2005 at 08:10 PM

>おやまさま

お返事遅くなりましてm(_ _)m
酔った勢いで電話魔に変貌する癖は当分、変わりそうにもありません。。

だよな、やっぱし愛かなあ・・・。

Posted by: かどぅ | July 23, 2005 at 04:12 PM

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