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June 26, 2005

遅れてきた「私」

オトコたる者、人間たる者、何某かの痕跡を世に残さねばならぬもの、と思っていた。

・・・この表現は過去形だ。
僕は小中高校時代を通じて、その時間のほとんどを生徒会活動に捧げていた。いわゆる「公共」の概念が人一倍強かったように思う。
今となってはよく覚えてないのだが、テレビで政治と代議士を扱ったドラマをやっていた。当時小学生だった僕は、何処か思うところがあったのだろう、奇しくもそのドラマの翌日に有った学級委員長選挙に立候補した。どちらかというと人の後ろに回りたがる自分を、どこか変えたい、と思ってたような気がする。無選挙で委員長になった。
中学は、マンモス校だった。昼休みになるとタスキを掛けて、全クラスを回る。2週間の選挙活動だ。1500名の前でのスピーチ、48名立候補して10名が生徒会役員に当選する。なかなかの難関だ。
お蔭様で、生徒会役員時代、僕はほとんどの集会を参加者側で見たことが無かった。文化祭や体育祭、僕はたいていの場合、舞台正面で何が起きているかを観たことが無かったように思う。

僕は何か何処か、「他人のために汗を掻きたい」と思って生きてきた。それがどんなにワザとらしく自己満足だとしても。

浪人生活を余儀なくされる中で、僕はすっかり内向きになっていた。
一人暮らしのアパートに戻ってきて、しおれた花になんとなく水をやる日々。やがて大学生になり、ひとと付き合い、友人と語らう中で、如何に「私」というものの存在を考えることが大事かと思いはじめた。

「修身斉家治国平天下」

己を築けて居ないうちから、天下国家のことを考えたって、しょうもないんだ。

時は流れて、いま、三十路になった。僕はまだ、自分の近くに居る誰をも、幸せにしていない。遅れてきた「私」はまだまだ、僕の中では十分に育ち得ていない。随分と遠回りをしてきたものだと思う。

そしてもうしばらくは、小学生中学生のあの頃抱いた気持ちは、取り戻せないのだろうな、と。しかして僕自身は、こんなウジったれた自分が嫌いじゃ、ない。もっともっと、変わりたいとは、思うけどね。

・・・ずいぶん、こっぱずかしいブログを、書いちまった。

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June 19, 2005

図書館を持てない貴方に

緩々と、情報が僕らを蝕んでいる気がする。
インターネット社会が編み出す情報の、さらに言えば、個の持つ私の持つ心の有り様から臓物まで曝す行為を、歓迎する向きは決して少なくない。往還するものは、情報ではなく、「ヒト」そのものだ、という説。しかし、だ。

僕はそこまで楽天的には成れない。

由来、僕らの存在は目的そのもので、そこでは「情報を集積・統合」することこそ一個人が体を為す構成要件だった。
しかしどうやら、このインターネットの社会の中で、僕らのありようが情報に弄ばれ始めてきたように思う。簡単に言えば、個人のありようは「情報の通過点・編集役」としてであり、そこには個人の中で積み上げられていく何かなどというモノは存在しえないのではないか、と、ふと思った。

いや、そもそもこれまでの知の有り様こそがいびつだったのかも知れない。

無名の人工たちが十年の歳月を掛けて構築した東大寺大仏、そこには誰が何処を構築したかという欠片すら残されていない。ただ、人工の汗と苦悩は、構築された作品を通じてしか感じ取れない(凡庸な僕には、感じ取ることなど、まず無理だが)。しかし後の時代になり、高名な仏師や名工と呼ばれる人物がその作品に銘を残すようになる。
時代は、また情報が匿名だった時代へと還りつつあり、僕らの存在も相対的に希薄化している。僕はこれは、ある種の構造的暴力なのじゃないかな、と思う。匿名的で緩慢な変化は、特定的で急速な何かの前で、いつも、見過ごされる。僕らが朽ち果てた先に残るモノが、その存在を通じて出来た何がしかの作品であれば、まだ良いのかも知れないが。

既に、「内なる恍惚の図書館」を構築したならば、それは幸いというものだろう。
だけど、情報は、知るという行為自体は、恍惚や征服も有るにせよ、知ることに伴う痛みや絶望だってある。僕のような弱弱しい人間には、逃げ込むべき「内なる図書館」を持つことすら、それが絶望へと口を広げている気がする。

それでも、境界線の先に、何があるかを見ざるを得ないのが性だと思う。

誰かと接し、愛し愛され、傷付け、煩悶し、そうして『構築』する可能性に、まだ何某かの希望を捨てきれない自分が、そこには、居た。

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June 12, 2005

浮世にこそ、華あれかし

だいたい、何だってんだよ、深夜のあの時間に。

思わず、クレジットカード番号を入力して買っちまったのは、昔懐かしい曲を集めたCDコレクション。ふっと家に帰ってきて点けた通販番組、どの曲も微妙に懐かしく、酒で酔いどれた頭では是非も無く買ってしまう他なかった。

どうなんだろう、深夜の通販番組でやたら売っている名曲CD選集が商売足りうるのは、購入する側を、思い出や懐かしさのシャブ漬け状態にしておいて、買わせるってことなんじゃないだろうか。僕はそれに、まんまと引っかかってしまったわけで。。

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今年のゴールデンウィークは、十年前に住んでいた街を歩く機会が有った。
地方都市の十年の変化は、東京のそれよりも顕著に見て取れる気がする。変わったもの、変わらないもの。街を歩きながら、iPodは思い出のメロディーをエンドレスで流している。思い出に浸るお膳立ては、すっかり整った。
思い出の欠片が、五感を通じて僕に入って来るのを待つばかり。

・・・だけど、不思議だ。何も懐かしくなんてない。

五感は最大に研ぎ澄ましたつもりだった。けれど、歩けども、歩けども、刮目すれども、舌の先ですら僕は懐かしさを解れなくなっていた。

ノスタルジーを理解できない不感症ぶりに、僕自身、若干の辟易を感じつつ。しかし、「まだまだ俺はやれる」と妙な確信にも満たされた瞬間だった。

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虚勢じゃない、強弁じゃない。昔なんて過去なんて、せいぜい楽曲の中にしか存在しないんですよ。探したって、もう何もないんだから、そこには。主人公が不在のドラマなんて、見ても何も感じ取れるわけないだろう。

浮世にこそ、華あれかし。

この身は地上に落つるとも、僕は、久米の仙人にこそ、憧れる。

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