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April 17, 2005

未知との遭遇、過去との邂逅

(また過去についてのクドクドか!というお叱りは感じつつも・・・)
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対峙せぬ方が良い過去ってのが有る。

日々の彩りが鮮やかになるのも色褪せちまうのも、自分の意識次第だし、ひとは幾度だってそこから這い上がろう変わろうとする意図が有れば、何者にだって成れるはずだと思う。その深淵を覗こうともしないで、シタリ顔で腕を組んでても、布団被ってても、日々なんて何も変わらない。

現在を懸命に生きる覚悟を決めたひとにとって、自分が過去認定した場に生きる人間に会うのは止した方がいい、と思う。
それが意図的な出会いならばまず避けるべきだし、邂逅としてもあまりよろしくはない。現在を生きる覚悟のある人間にとって、過去は足枷のように自分を規定したがるものである。過去は回想の中に有るから美しいのに、出会ってしまえば現在のありようを損なうことにも成りかねない。

これについては、マキアベリの言葉をそっくり引用した方がいいのかも知れない。
「運命は時代を変転させるのに、人間たちは自分の態度にこだわり続けるから、双方が合致しているあいだは幸運に恵まれるが、合致しなくなるや、不運になってしまう。
私としてはけれどもこう判断しておく。すなわち、慎重であるよりは果敢であるほうがまだ良い。なぜならば、運命は女だから、そして彼女を組み伏せようとするならば、彼女を叩いてでも自分のものにする必要があるから。」(「君主論」運命は人事においてどれほどの力をもつのか、またどのようにしてこれに逆らうべきか)

話は脱線するが、老いってやつも人間にとっては、「衰え」ではなくて「進化」の一形態なのかも知れない。
ラマルクは進化の方向性を、単純な生物から複雑な生物へと常に一定の発展を遂げると考えたが、老いにより思索やモノの捉え方は一見固着化単純化するようでいて、その実、複雑な視点や決定のための諸要素が収斂されたと考えれば、これすなわち「進化」ということではないのだろうか。

・・・ガラにもなく、難しいことを書きすぎちまった。らしくないな。ということで、悪文をこれ以上連ねるのは止めにして、有名な歌の一節を以って纏めとしたい。つまり、

五番街で噂を聞いて もしも嫁に行って
いまがとても幸せなら 寄らずに欲しい

「五番街のマリーへ」

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