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September 28, 2004

金も要らなきゃ、女も要らぬ!

思えば、昔のお笑いでは、「このヒトコトで確実に落とす」という類のものが多かった気がする。

今回のタイトルはご存知、玉川カルテット(通称:玉カル)の名文句「金も要らなきゃ、女も要らぬ。わたしゃも少し背が欲しい~♪」。このヒトコトを二葉しげるが絶叫すると、もう、観客は大爆笑の渦に包み込まれる。
玉カルに限ったことではない。昔のお笑いにとって重要だったのは、「ここのポイントで笑える」という芸能としての安定感だったような気がする。その意味では「お笑い」である以前に「芸能」ということだったのだろうか。そこでは、反復性の高さ(同じパートできっちり落とす能力)や普遍性(どのターゲット層に対しても万遍なく使えるネタ)が重視されていたようにも思う。が、まあ、そういう小難しげな分析はここでは止めておこう。

同じような要領で、三球・照代の地下鉄漫才「地下鉄の車両はどこから地下にいれるの?」だったり、セント・ルイスの「田園調布に家が建つ!」があったりした。幼少時分の僕は彼らを見るにつけ、子供心にも「もうすぐ来るぞ、来るぞ、、」という感覚に襲われ、大いにそのマンネリを楽しんでいたものだった。

お笑いは確実に複雑化した。
これはひょっとしたら、「進化」と呼べるものかも知れない。芸事としての敷居が低くなり(面倒くさい徒弟制度や修行主義から解放され、門戸は開かれた)、代わりに「ある一過性のタイミングで、面白いことをやれる」ことがお笑いにとっての重要なファクターとなったのだと思う。先に述べたような普遍性や反復性といった、保存可能かどうかというファクターはどこかに追いやられたのだ。楽屋オチ、素人イジリ(これは昔から有ったが)、ダブルぼけ・・・その進化は留まることがない。

しかし、物事は原点回帰するものなのかなあ・・・とも最近では思う。
ギター侍の「××ですから!残念。切腹!」、ユリオカ超特Qの「それでは発車の時刻です。」、長井秀和の「間違いない!」などは、ある意味で、昔のお笑いの文法とも言える『ヒトコトの持つ凝集力』に、お笑いの照準(力点)を絞り込んだものとも取れる。

・・・最近、お笑いが、また楽しく思えてきた。間違いない!

参考:過去コラム
「客いじり芸」に物申す!
「客いじり芸」の名人

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September 26, 2004

変わること、変わらないこと

30年ぽっちの人生の中でだが、いつも、2つのテンション(緊張)に支配されてきた。

「変わること」と「変わらないこと」

コンサルタント業界に飛び込んで6年。僕らコンサルタントは、往々にして「変わること」ばかりを他者に迫っている。
「市場の環境に対応するためにも、御社は変わらなくてはいけないと思います」「これまでの基幹業務のやり方で後手に廻っていた××機能を強化するために、御社は変わらなくてはいけないと思います」と。

・・・翻ると、我が身はこれまで、どれだけ器用に変わって来たのだろうか?
いち個人にとって、「変わること」が持つ意味合いは大きい。
もしも変わらなければ、いつしか他者に飽きられてしまう、見限られてしまう。『こいつって、何の変わりばえもしない奴だな』って。
もしも変わってしまったならば、それまで仲良くやれていた人間に、驚かれてしまう。『一体、何が有ったんだ?なんで変わっちゃったの?』って。

親密な付き合いであったり、他者に対する支配欲が強かったりするほど、後者の感覚を持ちやすいように思う。自分の知っている範囲外の性格がひとたび相手に発現した場合、平気で居られる人間はそうそう居ない。たいていは、相手の現状を否定するか、自己の知覚認識を拒絶することで、新しく湧き上がってきた相手への感情をコントロールしようとする。

けど、それは、空しい努力のようにも思う。相手が変わりたいという意思は尊重すべきであり、また相手側も大体にして、自己の見出した活路に対する余計な発言に対して、聞く耳を持たないことが多い。走り出した電車を止める真似なんて、ちょっと間抜けなだけではないでしょうか。だいたい変わる個人だって多大な犠牲を払うわけで、「変わること」には大抵エネルギーが要る。自分を克己させ続けたり、ネジを巻き続けたり、しなくちゃあ、いけない。ちょっと疲れるわけで。

一方で思うのは、「変わらない」という意思もまた、いち個人にとって重要な決定である。それは往々に周囲への思いやりの深さや、自分のプレゼンスを熟慮しての行動だ。幻滅を回避するためには、変わらないことが最も難しい生産行為足りうるのかも知れない。ひょっとしたら、攻める以上に、守るという行為は難しいのかも知れない。これまでと変わらぬ期待を生み続けるのは、そう簡単なテクニックではないんだから。

極私的な話になるが、いま僕は、「変わりたい」という気持ちに、日々支配されている。
どうしたら新しい価値を外界に提供できるか、これまで期待してくれているひとをさらに期待させ続けるには?と思って日々を慌しく過ごしている。その中では、僕が以前に出していた僅かなパフォーマンスに対しても、どんどんと積極的な意味での「裏切り行為」を続けていきたい。
「変わる」ことが否定されるのは、多くは、外界の変化が自己の変化よりも遅いときに起こる。そういうカラクリは十分に解っている。でも、なおかつ、僕は変わる足を外界になんて合わせずに、自分のペースで変わることを考え続けたい。それは時に、ある人々にとっての幻滅に通じても。

・・・でもね、なんつっても、人間、そうそう変わんないってば。明後日別な顔で、別な人生歩きたいけど、そんな天恵はやって来ないからさ。歴史。歴史は過去を見て、今後を予測するためのツール。僕には30年足らずでも歴史がある。歴史のトーンの中で、どれだけ自分の変革のための振り幅があるのか、それも重要なポイントになる。

ともあれ、今日変わることの価値に対して、正確な答えなんて出せないよ。けど、それでも僕は、変わることの価値を問い続けたい。自分にも、他人にも。

答えは、明日が、出してくれるから。

***
参考:「変革の陥穽」(アーサー・D・リトル社著)
※当初は酔っ払って書いたので後に加筆。

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September 19, 2004

少女漫画、舐めちょりましたm(_ _)m

ステレオタイプの罠、ちゅうか、ラベリングってえのはホントに怖いもんです。

なんといいますか、妙に目がキラキラしてて、白馬の王子様なんか登場しちゃって、愛だの恋だのばっかし夢みる麗しきオンナノコ♪みたいのが、少女漫画なんだと思ってました。家の漫画棚(結構色々とコレクションはあるつもりだが)には、男性作家の作品は有っても、女性作家の作品がほとんど無かったんですよねーー。つうか、女性の漫画家、なんだか読みにくい感じがして。かの名作、萩尾望都の「トーマの心臓」も、読み終わるのに何ヶ月もかかったくらいですし。。

ちなみに、家にもっぱら置いてあるのは、ちょい昔の男性作家の漫画が多いです。手塚・藤子両先生はさておき、ちばあきお、つげ義春、永井豪、横山光輝、池上遼一、諸星大二郎、、強いて恋愛モノ描いてると言えば原秀則くらいでしょうか。。

なぜに少女漫画が読みづらいか、それは一言で言えば、「恋愛」要素が必ずと言って良いほど入ってて苦手なんす。これでも俺(おい)、九州男児やけんね。女の子んことばっかし考えちょるとか、軟弱な感じがして、なんかすかんとよね。
・・・ていうわけでも無いけど、少なくとも、唯愛論(恋愛が無きゃ、生きていけない!)って、ちょい照れくさくてね。(そんな自分でも職場では、「みんな!人生は愛っすよ、愛!!」とかホザいて回っているから、我ながらいい加減なもんだと思うが(爆))

さて、話を本題に戻しますが、いい漫画に出遭いました。

   矢沢あい「NANA」(集英社Cookie連載中)

読んでみた。まあ、確かに、愛だの恋だのに耽溺しとるよ。ちゅうか、おめえ達もっと、天下国家のことを考えろよ!隣の国は核査察受けてるんだぞ、郵政民営化だってこの先どうなるか解らないんだぞ!!
・・・ってな、モテないおっさんの独り言は置いといて、、この作品、純粋に人間の描写がかなりきわどくシャープに描けてます。恋愛は確かにベースにあるんですが、女性どうしの所有欲やノスタルジーあふれる風景、夢キラキラではないリアリティある目標への実現プロセスの生々しさ、、これだけ詰め込めてもなお、散漫にならない作品は珍しい。

海辺の寒々とした光景はどこか、つげ義春の「長八の宿」に通ずるところがあるし、セックス・ピストルズへの賛辞に溢れたエピソード感や薄暗さも匂わせている。ちょっとばかし、主観が抜けない(物語としての思い入れなのだろうが、キャラクターに対する客観性・距離感をあまり作り込んでない)のは、この作者にとっての計算のようにすら、思えてしまう。ともあれ、最後まで見なきゃ総合判断はできないが、なかなかの名作の予感です。

実は本作じたいは未だ連載中でして、先がどうなるんだかも甚ださっぱり解りません。が、暖かく見守っていこうとは思います。いままで、『少女漫画』なんて、ぬるいカテゴライズしててごめんなさいです!あたしがバカでした。。

舐めちょりました!!m(_ _)m

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September 18, 2004

優しさと甘やかしの境界線

ロッタ様blogの、『見本を見せるのではなく自力で歩かせる』にTBをお送りしております。

見本を見せるのではなく自力で歩かせる

僕の生まれ育った街は、なんというか、古き良き「ご近所付き合い」の盛んなところでして。
世話焼きのおっちゃんや、ちょっとお菓子を分けてくれるじいちゃん、何かと言えば声をかけてくるおばちゃんも沢山居ました。いまの東京の暮らしでは考えられないけど、ご近所さんに「ちょとお醤油切らしちゃったから、貸して」なんてな光景も、珍しくなかったんです。ひとことでいえば、「外界への関心が高くて、悪く言えば、他人の領域にずけずけ入ってくることに遠慮のない」街でした。
それから20年近くが経ち、東京に住むようになり、僕は何年も住んでるマンションの隣の住人の顔も見たことがない。無関心でいることが当たり前だし、何か他に対して関心があることのほうが珍しいことのように感じられる瞬間すらあります。僕は大学で「政治的無関心(ポリティカル・アパシー)」を研究テーマに扱ったのも、こういった社会的に無関心を許容することの原因を探ってみたかった、という想いがありました。ま、政治的無関心の問題解決はちょっと遠大な理想のような気もするので、今日は身近な話をば。

生まれ育ったその街では、平気で近所の子供を叱る他人に溢れていました。
何か間違いをしでかしたときなんかは、親が目の前に居る・居ないなんて関係なく、きっちりと「ケジメ」をつけられてました。ちょっとしたマナーも言葉遣いもそうだし、先輩後輩関係やら長幼の序や動物への愛護なんかについて、僕らをつかまえてはあれこれ説教してくれたもんでした。あの頃は無かった日本語ですが、アカの他人からのそうした指摘を「うざい」と思うことも、正直少なくありませんでした。

それがオトナになり、いま思うのは、叱ってくれる誰かこそ本当に少なくなってしまったという事実です。受容する側の感度が鈍ったのかも知れない。変わってしまったのは自分のほうかも、知れないけど。
例えば、先輩・後輩の関係なんてそれほどご大層なものではないと思うけど、「誰かのためを思って厳しく伸ばす」ことよりも「仲良しぶってトモダチ然と振舞う」ことのほうが自分にとって利があるから、そう行動してしまう。すごく利己的な態度だと思う。でも実際のところ、下手なお説教やくどくどした筋論の話なんかよりも、そういうことは指摘しないで仲良く関係を続けるほうが、受容されることが多い。まあ、誰だって聞きたく無いもんね、くどくど話なんて。

本質はただの甘やかしに過ぎないのに、それが「優しい」というポジティブ・ワードでくるめられてしまう。「ときにはキビシクいく」なんてことをやった日にゃ、嫌われちゃうリスクのほうが大きいもんね。ま、誰だって嫌われたくないわけだし。そうして、優しさの罠は、誰かをスポイルさせる。どちらが本当の優しさなんだろう。

正直、こうした態度を取っちゃうひとのことが解らなくもない。何かしらの要因や過去の経験があって変質してしまうことだってあるし、外界に積極的に影響することに対して臆病になってしまっていることだってある。気が弱いひとだって居れば、思慮深く行動に移すひとも居る。一概には「すべからく積極的に他人に関与すべき」なんて言えない。
けれども僕は思う。社会生活を送るんだから、他人と関係し合い、影響を受け合ってナンボだろ?って。僕みたいな無神経ヤロウばかりでは構成されてないし、他人はそれぞれ違う価値観があるんだから、それを尊重すべき、という価値相対主義みたいな物言いもあるだろう。それでもなお僕は、他人への関与が持つメリットは、関与しないことを上回るはず、と思っている(この点にご意見ある方、どうぞよろしう)。

とはいえもちろん、相手のステータスや人柄や、行動の動機やら受容の際に想定される態度やらを、十分に斟酌・忖度して「キビシク」接するかどうかを考えなきゃいけない。誰に対しても、頭ごなしに同様に接していては、とても特定個人には届かないからね。それにしても今一歩、これは自戒も込めてだが、外界に対して踏み込む勇気が欲しいな、とは思います。

・・・自分、古い性分の人間っすかね?

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素材で勝負するという風潮

「美味しんぼ」という料理漫画がある。
主人公の山岡士郎は、素材へのこだわりぶり並々ならぬものがあるのだが、ときおり彼はアッと驚くことをやってのける。明らかに三流・平凡な(あるいは対戦の食材に関して格の劣る)素材を用いて、一流の味を凌いでしまうという芸当だ。
最高級フグの白子に対してタラ白子を出してみたり、ブランド日本米に対してタイ米を出してみたり。明らかに、料理の技巧だけで白黒はっきりつけてしまうことに、僕ら読者には爽快感が与えられる。

が、現実はなかなか、そうは行かないようで。素材の味ってのは強烈にインパクトがある。というか、一風変わった素材を持ち出した時点で勝負がついちゃうこともある。これ、別に料理のことだけを指しているんじゃないんです。

昨今の文学や映画で評判になる作品は、いずれも題材・設定の段階でほとんどの勝敗が決まっている感じがする。(いやもちろん、文学や映画は勝ち負けではないっすけどね・・)
 ・ドロップアウト女子高生とクールな小学生が風俗チャットで銭儲け
 ・ロリコン男とキャバクラ嬢のすれ違い同棲模様
 ・女子高生がドラッグ・レイプ・援交・ホストそしてエイズに
なんといいますか、いかにセンセーショナルで変わった食材を見つけてくるかが、その面白さの根幹にあるわけで。作品をつむぐ上でのプロセスで発現した、美しい表現や深い洞察・観察なんて、ぜーんぜん期待されてないような感覚もある。

そしてこの風潮は今後ますます広がっていくと思う。
僕自身は別に、こうした設定のトリッキーさ、素材のセンセーションで売りにする風潮自体は否定するわけではない。

けど、ふっと足元を見る。
と、俺はいちサラリーマンで、会社に通い、近所の喫茶店で茶をすすり、洋服買って、ビデオ借りて・・・と、平凡きわまりないセイカツを送ってる。だからといって、別に物珍しい設定やブンガク映画作品に対して、現実と離れた自分を仮借したいなんてこれっぽちも思わない。いや、ま、たまには思うかな。
平凡な登場人物が、静謐で安定した日々の中で、ちょっとだけ触れる違和感、「当たり前だ」と見過ごさない批判精神、人間関係への洞察。僕には、こっちのほうがよほど興味のあるテーマなのだ。魔法も、超人も、ロボットも、宇宙人も、登場はしないけれど。

かどぅちゃんねるでは、少なくとも、こうした平凡を積み重ねて面白さに変えていければ・・・って思う(実力・筆力のことは言いっこ無しで(苦笑))。

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September 13, 2004

「フレディ vs ジェイソン」

スポ根モノは、「努力が天才を乗り越える瞬間」に醍醐味があるのだと思う。

たいていの場合、才能ある者は努力家にとっての踏み台として登場することが多く、作品全体を通じて「かませ犬」的な存在として扱われるものだ。そうでないと、努力家のコツコツとした練習プロセスを描く意味がない。散々努力をした挙句に負けてしまっては、終幕のカタルシスも無いし、寝覚めも悪かろう。

・・・あ、そうそう、この作品はホラー映画でした。

FvsJ.jpg

雄弁な天才肌フレディと、寡黙な努力家ジェイソン。

しゃべりも旨いし、ユーモアのセンスも抜群、服だって可愛いボーダーシャツなんか着ちゃってさぁ、ワンポイントの帽子もまた似合ってるぜ。そう、おいらはフレディがお気に入り。ブスっとしやがってジェイソンさんよぅ、悔しかったら、なんか言ってみろや、おい!

フレディはそもそも、夢に出てくるという設定自体、並外れた能力の高さを物語っているわけだが、加えて瞬間移動もできるちゃうし、身のこなしも軽いのなんの。あんなブンブンと大ナタ振るってるばっかしの、愛想なし芸無しデクノボーと比べられたくもないぜっ。(ジェイソンファンの方、ごめんなさい!!)
ま、両者のバトル(正確には、フレディvsジェイソンvsガキ共の三つ巴だが)の結果のほうは言わないでおきましょうか。。

以前レビューしたテキサス・チェーンソーは、観客の不快感を引き出すことに成功した、由緒正しいホラー映画だとすれば、本作はまるっきり爽快な後味でした。いやぁ、映画って本当にいいですねえ。わたくし涙をこらえるのに必死でした(←ウソ)
フレディちゃん、俺の夢でよければ、いつでもOKカモン!ウィットのある奴なら、ウェルカムだぜ。

・・・観終わった後に、ふっと思い出した。

「あ、そういえばこれ、ホラー映画だったっけ?」

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「難しい」は便利な言葉

読解力の無さと勘の悪さも、僕ほどになれば、結構自慢できることだってある。

女の子はしばしば、「それって難しいよね」とかいうコトバを使う。いや、小生は使われることがある。何のことはない、別段ボクの話の内容が高尚なわけでも、難解なわけでもないと思うのだが。これって明らかな信号を発しているだけなのです。。翻訳すれば、

「その話題にはとくに興味もないし、考えたくもない」

と言っているのに等しいんじゃないかしら。
「キョーミない」「考えたくない」では直裁的だろう。それをオブラートに包み、低温で焼き上げて原型を留めないくらいの言い方になったとき、「難しいよね」のコトバが出てくる。

オトコよ、ゆめゆめ、信号を読み違えるな!
慌てず騒がず、別の話題を用意しよう、その素材は何処かにしまって、さ。

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September 12, 2004

持たざる強み、持てる弱み

「昔は出来ていた」のに、何かをきっかけに「今は出来なくなった」ことが、世の中にはあるらしい。

それは小学校時代のとある読書感想文コンクール。僕はある小説の感想文でたまたま賞を取った。期せずして、「その作者」と会する機会を得た僕は、その場で作者から新刊を手渡された。作者とはその後、文通する間柄となった。出たばかりの新刊を貰い、また読書感想文の対象にした作者と直々に会ったことですっかり舞い上がっていた僕は、新刊を題材にさっそく次の感想文を書いた。幸いにも感想文はまた別の賞を獲得したが、その感想文を意気揚々と作者に送ったところ、前ほどの評価が得られなかった。むしろ、酷評された。「前の感想文のように、もっと鋭く突っ込みが欲しかった」と。
ひとたび知り合ってしまったために、僕の筆致は精細や鋭敏さを欠いていたようであった。大きな違いは、僕の感想文で登場する三人称がすべて、「××さんは・・・」になっていたこと。一度でも面識がある方ゆえの、『さん』という敬称だが、これは僕の文章における「手加減」を象徴的に表している表現と思った。

僕のケースを見てもそうかも知れないが、それは、「意識する」或いは「持てる」ことによる変化ではないだろうか。
一個の人間を見る限りにおいて、過去よりも現在のほうが、知覚・認識に関するレベルは向上するものとボクは基本的に考える。にもかかわらず、以前は意識することなく「自然に出ていた実力」が、意識することにより急激に低下しているように見える。全く以って不可思議なトリックだ。

「以前は出来ていたこと、が出来なくなる」現象を、ひとは「スランプ」と称することもある。
すなわち「スランプ」とは、ある一定のレベルに達した人物や何がしかを獲得した者にのみ、発生する状況のことなのではないだろうか。そして多くのひとがこの「スランプ」に至って、葛藤や煩悶を繰り返す。「前は出来たのに、なぜ今はできない?自分は××を失ってしまったのだ」と。

甚だ希望的な観測なのかも知れないが、人間そう簡単に、前に獲得していたことや、昔は出来ていた物事を喪失するものではないと思う。ただ、自意識の与える罠が、自らを縛り方向付けているだけのことだ。「意識」や「自覚」を健全に獲得してしまったがために、かえって以前のパフォーマンスが出せなくなる、或いは弱化してしまうように感じられるものだ。往々にしてひとは、こうした状況を自責するが。
確かに、あるスポットや局面において、前例と同様の実力を出すことが求められることは少なくない。しかし、その際に実力が出せないからといって、簡単に「失った」と感じるのは早計であろう。何ごとかを獲得するというのは、そう生易しいことではないように思う。獲得のために、ある特性に傷がつくことをも覚悟しなければならないからだ。
同じ定規で見れば、『前回と違うパフォーマンスである』という現象面しか測れないが、一個の人間の中で起きた変化の総体としては、「モノを知ってしまった」分、思考の深まりがきっと有るに違いない。現象面は弱くなれど、思考面は深まっている。それじゃダメなんですかねえ?

繰り返すが、何かを獲得したことで弱くなるというトリックが、人間をやっていれば、ときたま起こる。
人間そんなに器用じゃない。あの頃覚えた年号や、あの頃解けた方程式が、思い出せなくても解けなくてもいい。「忘却」と「退化」とは異なる性質のものなのだから。何かの特質が強くなれば、もしくは、以前の状況よりもよりビビッドな現実を目の前にすれば、必然的に変わらざるを得ない、というだけのことだ。
恐れてはいけない。獲得したものと弱くなったものとの大小なんて、いったい誰が量れるというのだろう?

むしろ、変わらぬことをこそ、恐れるべきなのに。

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September 09, 2004

人生が、二度有れば

詮無いことを、考えた。

「人生が、二度有れば」

人生の中でボクが取った、取らされた、いくつかの分岐点のマジック。そしていま、ボクは、ここに居る。
なぜ、あのとき、あのバスに乗らなかったのだろう、なんて後悔は無い。やるなら全くのやり直しがいい。ロール・プレイング・ゲームのように、違う名前で、違う性別で、違う時代に、違う場所で、真っ白なカンバスから、やり直したい。
次のボクは、今のボクを知らない。

僕の座右の銘(笑っちゃうけど)は、「人生は何度でも、リターンマッチができる」。
意思あるところに戦略を敷き、その戦略が次の目的地までの水先案内になる。人間は、何度でも、その心掛け次第で生まれ変われるものと信じてきた。こんなにリアリストで、人並み外れて疑り深い自分としては、可笑しいまでの純情っぷり。

船は何処に漂着するのかな・・・Serendipity!
偶然の宝島なんて、見つけなきゃ良かった。珍しい宝石も、見なきゃ良かった。
幸運な航海は、僕の時計を狂わせる。

また別な国に漂着した。
言葉の解らぬ国に、言葉の解らぬ人が居る。心通う自信も持てない。
惜しいけど、そっと去る。
次の人生が有ったなら、言葉の解る国の住人になろう。いまのパスポートじゃ、使えないんだ。

雄弁な現実と、寡黙な未来とを、傍観する過去。
そんなに僕を睨みつけるなよ。苦しいよ。次の人生が懐かしく思える瞬間のはじまりだ。

・・・人生が、二度有れば。

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September 07, 2004

知ることから逃げるために

あるサイトで、議論勃発している状況に出くわした。
争点は非常に単純明快。いま話題の映画に関して、「思想信条上の理由で観たくない」と頑なに拒む者と、「観ないことには価値判断ができない」と観ることをしきりに勧める者。双方がお互いの立場を譲らないのだ。

そういえば、2ちゃんねるなんかで、「↑このリンクを踏んでみて。すっごいオススメ!」みたいな書き込みに騙されてリンクをクリックしては、酷い目に遭うことも決して少なくない。『好奇心、ネコを殺す(Curiosity kill the cat)』の諺の如く、知らなくてもよいことを知りたがるために、かえって墓穴に至ることもある。(←おバカです・・・)

それにしても、これだけインターネットが世の中に普及すれば、クリックひとつで世界中の映像文物にアクセスしうると言っても過言ではない(ちょっと大袈裟だけど・・・)。しぜん、我々の多くにとって、「観る」「観ない」の判断は極小化することになり、脊髄反射の要領でクリック行為をしてしまうこともまま有る。
こんな時代では、「観たくない」「知りたくない」という選択をすること自体が、なんだか間の抜けたことのように思われるのはしょうがないことだ。「知る権利」って言葉は有っても、「知りたくない権利」なんつう言葉は無い。極論すれば、知らないこととは、恥ずかしいことであり、欠落した状態を示すことであり、『知りたくない』ひとの存在なんか、構っちゃ居られない訳なのだ。

では、「知る・知らせたい」或いは「見せる・見せたい」暴力から僕らが逃れるためには、どうすればいいのか?
結論から言えば、この種の暴力から完全に逃げ隠れおおせることは不可避だと思う。悲しいけれど、それが現実。知ってしまった以上、健忘にでもならない限り、知らない以前の状態に戻ることなど出来っこないんだから。時間は元には戻らない。

けど、受容や知覚認識に際して、心の有り様で軽減させることならば、辛うじて出来なくも無い。僕の試案だけど、次の方法なんてどうだろうか?
 ①危機を察知したら、近寄らない(感度を過敏にすることでの回避)
 ②積極的に知るも、あまり深くは考えない(感性を磨耗させることでの回避)
 ③相手を、自分自身を騙す(心の持ちようを操作し、都合よく解釈する回避)
あまり良いアイデアではないけれど、この3つあたりが現実的なソリューションだと思ったりもする。

①は、ふだんより感度をなるべく過敏にして、知ることで自分が不幸になることを避けるアプローチ。もともと察しの良いひとや、習慣からの法則性を見抜けるひとならば、このアプローチが有効になるかも知れない。ただし、知っておけば良かったかな、という後悔が残る可能性は無いとは言い切れない。
②は、経験値を上げるやり方。どんなお化けも、どんな不気味さも、馴れれば怖くないの理。その個々人の経験曲線の伸び次第だとは思うが、思考の断絶性・継続性の操作力が必要になるだろう。ただし、楽しいことや悲しいことに馴れ過ぎるために、簡単なことでは感性がときめかなくなるという不毛に苛まれるかも知れない。
③は、かなり高等だと自分自身は思う。強いて言えば、楽観性や精神的タフネス(回復力の高さ)の要素が必要なのではないか?武者小路実篤の短編小説に「お目出度き人」というのがあるが、あの主人公はまさにコレ。身に降りかかる、知らずに居れば幸せな事物も、こういう人の前では意味を成さないだろう。ま、滅多には獲得できない能力だろうけどさ。

色々書いたが、この時代、いや、これから先の時代はますます、知ることからどう逃げるかが重要になるのではないかと勝手に想像している。「百聞は一見に如かず」、経験による価値の重要性をボクはまっこう否定するわけではない。しかし、せめて、ボクのような一部の臆病者や偏屈者にも、「知らない」という選択肢を残している世の中で有って欲しい。そして欲を言えば、この世の中に「知らない領域」を健全に保持する仕組みを残していて貰いたいもんだ、と思う。

・・・ゴマメの歯軋りって奴だけどね。。

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September 06, 2004

サーチエンジンは何処まで進化する?

新聞の一面を読まなくなって久しい。
まあ、毎日刻々と変化する情報がそこまで自分にとって価値があるかどうかという疑問もあるし、実のところ、朝には既に知ってしまっている情報を紙でわざわざ確認したいという気がしないからだ。げに、インターネット社会って便利だわ。新聞はもはや、論説委員のコメントか、過去のデータ推移の確認か、文化面の特集くらいしか価値がないんじゃないかしら、とすら思う。

いまや、インターネットに触れているかなり多くのビジネスマンにとって、最新情報はYAHOO!ポータルの右端トピックスから仕入れる、というのが常道ではないでしょうか?つまり、YAHOO!の右端に選別されるかどうかで、情報の速報性やニュース性などを判断する大きな材料となりうるってこと。YAHOOさん、いい加減なことってできないっすよ。

さて、YAHOOを採り上げたからGoogleも、と思ったが、Googleの場合は若干ニュースの表示形態が違う。Googleニュースをご覧になって頂いたらお分かりでしょうが、社会・国際・経済・・・という風にカテゴリに分類してあって、一行表示で分かるようにはなっていない。YAHOOの表示の仕方がニューストピックとしてのキャッチーさを狙っているとしたら、Googleの場合にはより構成を考えて真面目にニュースを採り上げたいのかな、とも思う。

わたくし的には、ニュースチェックだったらYAHOOに軍配を上げますが、とはいえGoogleも侮れじ。なんたって、Googleには電卓機能が付いている。試しに「9/6」とGoogle検索してみてください↓

dentaku.jpg

「1.5」って・・・ほんとに計算しちゃってるし。。

ま、無難な結論でなんですが、こうやってサーチエンジン同士がしのぎを削り、どんどこ進化してもらえば、まあ末端のユーザーがトクするってことで。とってもいいことなんでしょう。めでたし、メデタシ。

※追記※
ちなみに、Googleの電卓機能はホントに物凄い、というか下手な関数電卓を超えてしまったスペック。
四則演算だけならまだ可愛いもんで、階乗(!)や進数、三角関数、オイラー数に、度量衡単位の変更、、、と相当な領域までカバーしてしまっている。ちょうど良い事例がありますので、詳しくは↓のサイトをご覧ください。。

http://www001.upp.so-net.ne.jp/yama-k/memo/googlecalc.html

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September 05, 2004

立ち技コンサル、寝技コンサル

日本オリンピック史上100個目の金メダル、自身3個目の金メダル。いやあーー柔道の野村選手は、本当に凄いんだなあ・・・と、いまさら笑われそうな感想の今日この頃です。
後にも先にも高校の授業以来、柔道着なんて着たこともないわけですが、受け身ひとつ取れない(体育教師からは、「豆腐の崩れたような様」と罵られていました(汗))自分としては、ひとをああやってブン投げたり、押さえつけたり、ときに落としたり、いやあーもう異次元人の出来事のようにも思えます。

さて、柔道によらず格闘技の世界では、「立ち技は才能、寝技は努力」という風に捉えられているそうですね。

ふっと思い当たるのは、コンサルタント仕事の中でも、実はそういう観点に近いものがありまして。
いわゆるプランナーと呼ばれる方々に近いコンサルなんかがそうかも知れませんが、とにかく、一発勝負どころで強いコンサルタントってのが居るように思います。いざ重要なプレゼンや提案事に至ったとき、とにかく瞬発的に相手を魅了する話術と表現力の限りを尽くして、仕事を取ったり収束させちゃうようなタイプの方。その、華麗かつ一撃でキメる様は立ち技にも喩えられるかも知れません。
一方で、いわゆるプロセス・コンサルタント(クライアントスタッフと一緒にチームを構成し、改善策を検討するコンサルタント)に多いように思いますが、相手との関係形成の中でじわじわと納得感や方向性を見出し、成功に近づけていくタイプも居ます。こういうとき、必ずしも一発勝負では事が決まりませんが、議論検討の慎重なステップ設計や、説得のための外堀からの埋め方(ある意味でのポリティクス)などが要求されます。なんとなくですが、寝技に喩えられるような気もします。

しかし、実のところは、二値的な問題では無いんでしょうね。冒頭の野村選手を思い返せば、彼は立ち技の華麗さもさることながら、寝技もまた物凄い。いわゆる、「立って良し、寝て良し」なオールラウンダーなんですよね。天才にして、なおかつ努力を要して寝技も獲得したということなのでしょうか。。
天才などという呼称とは全く以って縁の無い自分ですが、それでも、「立って良し、寝て良し」にはひとつの憧れの姿があるように思います。少なくとも、いつまでも、崩れた豆腐のままでは居られませんから。(爆)

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September 04, 2004

Don't trust over...

マーク・ボランは、「ぼくは30歳になる前に身体がバラバラになって死ぬだろう。パリで魔女に予言されたんだ」と言っていた。マークは30歳を迎える2週間前、自動車事故でこの世を去った。

最近友人が三十路を迎えたが、同様にもうすぐ二十代に終わりを告げようという僕も、なんだか奇妙珍妙な気分だ。三十代はもっと遠いもので、もっともっとオトナになるもんだと、昔は思っていた。さて、、

"Don't trust over thirty(オトナを信じるな)"ってなコトバもあるけど、ほんとにそうかな?

いや実のところ、思い返せば僕は決して、純粋で無垢な子供では無かった。
子供がまっすぐで正直で素直でけがれ無いなんて嘘っぱちだ。あの頃すでに僕は、企んだり、謀ったり、曲がったり、ひねったりしてた。オトナに気に入られるために、下手糞で卑屈な純粋さを磨いてたような気がする。
きっと、皆さんも、そうだったでしょう?

だけどこの年になってようやく解ったのは、形にならない想いもオトナになるにつれて純化することがあるし、諦めや挫折はあってもそれを美しく糊塗することで、本当の美しさに到ることがあるってことだ。付き続けた嘘の数だけ、報われることだってあるんだ。
でもひとつだけ思うのは、オトナこそ理想を知らねば、言わねばならない存在なんじゃないかな、ということ。現実は往々にして理想を凌駕する説得力を持つけど、それでもなお、理想は大事だということ。コドモは現実を受け入れることでオトナに近づくのかも知れないけど、オトナを動かし続けるのはシビアな現実だけでは窮屈になってしまう。
オトナにこそ、理想を。

"Don't want to be thirsty-thirty(乾いたオトナには成りたくねえ)"って思う。

テレビのキャスターは、したり顔でこう言った。「ちょっと大人げない行為ですね」
バカ言っちゃいけない、大の大人だからオトナ気ないことがやりたくなるんだ。オトナが無邪気になる気持ちが、何事かに陶酔する気持ちが、コドモなんかに解ってたまるかよ!

さーて、カウントダウンは始まった。あの電柱の先には、誰が隠れてるのかな?

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文科系オリンピック

連日あれだけオリンピック放映がなされていると、日本を代表する運動音痴として、これはもう参加するしかないという覚悟に至ってしまう。ふと、我と我が身を振り返る。
「・・・で、俺、何かスポーツできたっけ?」
悲しいかな、何も取り柄は持っていない。唯一ルールを知っているスポーツはテニスだが、そのテニスも中学のときにクビになって以来、ほとんどラケットを握っていない。(⇒参考:テニスと僕

しょうがない。こうなったら、俺の、俺による、俺のためのオリンピックを、開催するしかないじゃないか。

      「文科系オリンピック」

なんて甘美な響きなんでしょ・・・。

もちろんエントリー種目は文科系の人間ならば食指が思わず伸びてしまうラインナップ。
漢字書き取り、百人一首、そろばん・暗算、駅名・地名の暗誦、高次方程式の早解き、化学・物理実験、タイピング早撃ち、時勢討論、哲学宗教討論、プラモデルのスピード組み立て、アニメ・漫画キャラクター制作、会計監査、システム開発、、、

・・
・・・
・・・・あかん、あかんわ、、地味にもほどがあるやん。。いったい誰が見たい、こんなオリンピック?

あの、このブログをご覧になっていらっしゃる各界関係の方、もしよろしければこの企画、ダメモトでいかがでしょう?
あ、きっと、ダメっすよね・・・。

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