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August 09, 2004

個人が政治を意識する瞬間

1989年の冬、ボクは職員室のテレビに釘付けになっていた。
授業開始のチャイムはとっくに鳴っていたが、この世紀の出来事の折、位置ベクトルだ内積だなんて更々学ぶ気にもなれなかった。

同年の6月4日、奇しくも中国の天安門事件と同日、ポーランドで「連帯」政権が樹立された。中国とは際立ったコントラストを為していた。この政権成立を皮切りに、以後、ハンガリー、東ドイツ、チェコ、ルーマニア、、とその年の冬までに東欧では連鎖的な民主主義革命が進展する。
大方の見方では、この東欧の民主主義革命は「社会主義経済の不振・構造的な破綻」が主要因とされているが、実はそれ以外にも、政治的に意味を持つものとして、次の要因が挙げられる。
 
 ①東欧諸国の指導者層の腐敗
 ②共産主義体制下での、「下からのデモクラシー文化形成」の挫折
 ③環境の悪化

①は言うまでもないが、ルーマニアのチャウシェスク大統領夫妻の処刑などが記憶にあるかも知れない。
②は特に、これら東欧国家における一党独裁や高級官僚によるエリート主義的な支配体制の中で、一般民衆の発意に基づくデモクラシーの形成が遅れてしまったということが考えられる。少なくとも、初期マルクス主義の目指すものとは方向が転換してしまい、多元的な文化のありようが否定される構造にあったことも考えられる。

そして、ここで僕が注目したいのは③の理由だ。
社会主義体制下での経済指導により、東欧は1970年代までに急速な工業化を進めたのだが、そのひずみは大きかった。1980年代の十年間に東欧、とりわけ旧チェコとハンガリーでは、工業化にともなう公害と環境悪化が深刻で、ある調査では平均寿命が十年間で5歳も縮まったという結果が出てしまった。
民衆は生命の危機を感じて環境保護運動を展開、これが母体のひとつとなって、市民運動に結びつき、やがては東欧の社会主義政権を崩壊させる原動力となったと言われている。(参考:「ラディカル・デモクラシーの地平」(千葉眞))

政治が十分に機能を果たしているとき、それは個々人の私的領域が大多数において侵害されない生活を担保されている状態だと思う。一方で、政治が機能不全に陥っているとき、それは政治が個々人の私的領域も公的領域も含めて、ある種の危害を加える可能性を持ち、もはや代表性を発現できなくなってきているときだと思う。
東欧の民主主義革命の一因は、「生命の危機」を民衆が感じたことだと先に述べた。
翻って、今の日本の僕らはどうだろう?ある政治学者は言う。「人々は、究極的には、個々人の利益・福祉が増大するとされることによってしか、私的なものに対する制限の正当性を主張することは不可能なのだ」と。
私的な領域を護るために、公的なことに敢えて取り組まなきゃいけない瞬間だってあるのかも知れないですね。僕は、次の言葉を自分への警句にしている。


「わたくしどもを奴隷にして下すってもよろしいから、どうぞ食べ物を下さいませ」(「カラマーゾフの兄弟」)

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