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July 09, 2004

パンドラの箱の底には?

言葉に絶望した日には、死すら厭わない。

あわただしい日常の中で、言葉を操ることを生業のひとつにしている以上、言葉への信頼感は一入であるつもりだ。
でも、言葉の本質は、遠回りで空回りで、風に吹かれるままに流れる、そんな信頼に足らないもの。

何をか、永続的なモノや損なわぬ何かをその背後に見出したのか?甘い、甘い、自分。かなぐり捨てちまえよ。
言葉への過剰な期待感は、大きな幻滅感になって二者の間に横たう。切望の挙句、失望し、絶望するのがとどのつまり。なのに、僕らはコトバへの、盲目的な、あるいは、「こうなって欲しい」というだけの期待感を託し、すがって生きる。

いかなコトバも、その呼応する文脈や、既視感や、歴史や背景なしには、浮薄な存在だってことなのに。
コトバそのものには重さは無い。しかし、その紡ぎ方が糸の一部として、コトバを確固たらしめるだけなんだ。
どうして、こんなシンプルなことに気付かなかったんだろうか。

自由になりたい、言葉の鎖から解き放たれた、原初状態の自分を取り戻したい。
もし今でも、blogがlog(英語で実験・観察の日誌)という意を持つならば、ただただ素直で朴訥な気持ちだけでこう言える。

・・・コトバよ、今一度、僕を輝かせて欲しい。

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Comments

以下の話は受け売りですけど。。。
ウンベルト・エーコ先生は『記号論』の中でこう言ったそうです。
「言葉とは、ウソをつくための道具である」と。
それなら、聖書のはじめの確か「はじめにロゴスありき」と結びつけて考えたら、この世界はぜーんぶウソから出来ている!とも考えられます。
でも、別にウソだからいけないなんてことないですよねー。
どうせウソつくなら、ウソの技術を追求してみたいと願う今日この頃です。

また、言葉がすべてこの世界を構成する!という言説は非常に魅力的ではありますが、その言葉はどこから生成されてくるのか?という疑問もまた生じてくるように思います。
>自由になりたい、言葉の鎖から解き放たれた、原初状態の自分を取り戻したい。
と、おっしゃるのは、おそらくそうした意識なのかと勝手に推察しております。
私自身はカラダという次元からその疑問に取り組み続けています。楽しいような、苦しいような。きっといつまでたってもこれは解けない問いであるような気がしています。

長々とスミマセン。それではまた。

Posted by: たま | July 10, 2004 at 01:24 AM

たま様、いつもコメントありがとうございます!
(&亀レスでごめんなさい!!)

わたくし自身、言葉に対して多少なりとも自信があるためなのか、その言葉で他人を説得できなかったり、解り合えなかったりする瞬間、言葉への絶望感が大きく広がってしまうんですよね・・・。

でも、たまさんの仰ること、すごく面白くて、
>でも、別にウソだからいけないなんてことないですよねー。
>どうせウソつくなら、ウソの技術を追求してみたいと願う今日この頃です。

この辺の割り切り感や彼岸を覗いてみたいと思う気持ちは僕も、「うん、うん!」て納得しちゃう部分です。

何処からか生まれた言葉が、育ち、死を迎え、しかし暫く後に復活して、、という生々流転の様を、僕もこのブログなる表現手段などを通じて、展開していければ、、とたまさんのコメントを拝読しつつ、改めて確信しました。

これからもよろしくお願いします!

Posted by: かどぅ | July 11, 2004 at 05:00 PM

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