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July 03, 2004

すてたい自分、なりたい他人

「リプリー」という映画が、そこそこ好きだ。
終始、太陽照りつけるイタリアが舞台にも関わらず、明るさの欠片一つもなく、延々と主人公のドロドロとした内面を描き続ける。なんというか、精神的に健康な状態に有ったらあまり見たいとは思わないのだろうが、ちょっと疲れたときなんかに見ると色々考えてしまう感じの映画。(ちなみに、アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」のリメイクです)

この映画のテーマは、「自分が違う人格に変われたら・・・」ということである。

天性の明るさと美貌を備えた富豪の息子に憧れ、彼との親交を深める中でいつしか自分と同一化させていく。なんたって、マット・ディモン演じるこの主人公リプリーはまあ、天性のネクラな感じなんですよ。沈鬱な表情の連続、薄皮のように危うい嘘の積み重ね、、見る側をなぜかつい、陰気な主人公を援護したくなる気持ちに駆りたててしまう。

「天性の明るさ」とは言ってみたものの、あらためて日常の中で起こりうる「陽」と「陰」について考えてみると、実はけっこう操作可能な要素が大きいのではないか、と思う。上手な仮面の被り方と、我が心の奮わせ方、それだけではないだろうか。(「だけ」なんて言ってるけど、実際にはかなり難しいアートだと思う)

太鼓持ち、というとあまり良いイメージを連想しないのかも知れないが、江戸期の日本で座敷を場持ちさせることは一種のアートだったのではないだろうか。いまでは職業太鼓持ちこそ居ないが、飲み会で場持ちするひと、というのは居る。
陽気に周りを盛り上げる者、その陽気者に鼓舞される周りの者、そして、なぜだか所在なげに周辺でちびちびやっちまう者。僕の場合、陽気に振舞う者の心理と、所在なげに周辺に居る者の表情に、興味が湧く。

かつて場持ちの達人と飲みにいったとき、「かどぅさん、自分を捨てなきゃダメだよ」と言われたことがあった。
ハッと驚いた。このひとは生来の気質だけでなく、自分を捨てる努力でここまで人を鼓舞できるんだ、と。また同時に、『なるほど、この人にとって呑み会は周囲に対するホスピタリティそのものなのか・・・。自分は他人をエンターテインしようという思い遣りに欠けてたか』と少しばかり反省もした。
もちろん、場持ちはアートである以上、器用不器用が成否を分ける重要なファクターだと思うが。

一方で、もともとエンターテインの下手な内向きな人物が、精一杯、他者にお追従なんか言ったりしてるのを見ると、もう、抱きしめてやりたくなる。下手糞でもいい。醜悪なんかじゃない。
器用なひとなら軽々買えるであろう他人からの贔屓の念も、不器用な人物はなかなかぎこちなく、買うに買えず、見るに心痛く感じてしまう。でも、そのハードルを越える勇気と健気な努力をこそ、評価したい。

・・・大丈夫、誰かが見てますから。

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