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July 31, 2004

「シンプル・プラン」-獲得と喪失-

オタクが、マスの心をつかむ様子には快哉を叫びたい。

simpleplan.JPG

死霊のはらわたやXYZマーダーズなど、オタク垂涎の作品でお馴染み、サム・ライミ監督が化けたのは、いつからなのだろうか、、シンプル・プランを撮ったあたりからじゃないかな?
「スパイダーマン」でいまや、押しも押されもせぬ「(マスに対して)稼げる監督」の仲間入りをしたわけだが、「シンプル・プラン」ではその萌芽が見える。思いもかけぬ能力が手に入ったとき、それまでの静謐な、平凡なセイカツは脅かされる。これまでの静やかな生活と、新しく手に入った天恵との間で、主人公は煩悶する。

今回のスパイダーマン2も、シンプル・プランも、根底の悩みは酷似している。スパイダーマンのほうが、しつこいくらいに主人公の不幸な境遇を描いている。ま、その合間にも、サムライミらしい脱力な面白シーンが散りばめられてるわけだが。ともかくも、いつまでこの不幸は続くの、もうそろそろ勘弁してやれば?と思わせる。手売りのレコードで田舎町を廻る演歌歌手じゃないんだから。そんなに我慢させてドーするの?
しかし、鬱屈が長かった分、終幕のカタルシスは爽快だった。やはり、スパイダーマン3が期待されてるからかな。
おっと、あまり喋るとネタバレになるので止めときます。。

シンプル・プランも、思いもがけぬ大金を手に入れた主人公の悩みが軸になって描かれている。が、こちらは結局、爽快なエンディングを迎えられなかった。スパイダーマンは最後に「獲得」が期待される(つまり、ハッピーエンドが薄々期待できる作品な)わけだが、シンプル・プランの主人公に待っていたものは「喪失」だった。これ、劇場で見てたら、脱力してまっすぐ家に帰っちゃうね。
ともあれ、人は簡単にカネや思いもかけぬ出来事で変わる。けど、思ったほどは変われないんだなあ、としみじみ感じた。

この夏の暑きにこそ、シンプル・プランで涼感を味わってみてはいかがでしょうか?

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July 30, 2004

御用だ、誤用だ!

唄は世につれ、世は唄につれ・・・なんてえことをよく申しますが、言葉の世界もまさに「世につれ」なのでしょうか。誤用って結構多いですよね。僕がここ1週間くらいの間に出会った誤用をちょっとメモ程度に取り上げてみます。

●煮詰まる(に-つ・まる(動))
・・・誤用の代表選手ですね。
(例)「仕事に煮詰まった」「会議中、議論に煮詰まった」
本来は煮物をぐつぐつ煮込んで、水分がなくなるのに近づく状態のことを指すわけですから、「結論に近づく・完成一歩手前」なんて意味が辞書的には正しいんですよね。そうすると、上の例はいずれも、「行き詰る」との間での勘違い。けど、今、世間では「行き詰る」の意味で使うひとが7割くらいでしょうから、まあそのうち、辞書には誤用のほうが載るようになるですだよ。そういえば、テレビを見てて、とあるアナウンサーも『行き詰る』の意味で言ってたなあ・・・。

●テンション(てんしょん(名))
お笑いが大好きなんですが、よくお笑い番組では「テンションが低い」とか「テンションを上げていかなきゃ」みたいな台詞がありますね。でも、辞書的な意味では「tension=緊張(感)」ということなので、「concentrating(専念する・集中する)」のほうがむしろ、意味としては近い気がする。巷間よく使われる、「盛り上がり」「騒ぎっぷり」という意味は、「ハイ・テンション(これは英語でも存在する言葉です)」から派生したのかな・・・と。

●確信犯(かくしん-はん(名))
これは結構、面白い。正しく辞書的意味を言えるひとって以外に少ないかも。
「確信犯」とは本来、「宗教・政治などの思想信条を確信する人物が、『俺のやってることは正しい』と確信して引き起こす犯罪」のこと。戦前なんかには多かったけど、幸徳秋水や大杉栄の生き様なんて、まさにこれ。
いまの世に使われる確信犯という言葉は、「悪いってわかっちゃいるけど、やっちまった悪さ」という意味がある感じですよね。法的には「故意犯」というのが正しい言い方なんじゃないかな、と思いますが、ま。

別にここで、正しい言語ハンターっぷりを世に晒すつもりはさらさら無いんですが、言葉って不思議なもので、お互いの言語的な思想的な育ちようが根底にあってはじめて、対話として十分に成立しうる性質もあるのかな、と思ったりします。友人は必死に「煮詰まる自分」を訴えるんだけど、僕には「それっていいことじゃん」と思えたり。(それは僕の文脈読解力のほうに問題があるか・・・(爆))
こればっかりは、多数者が使うことがやがて、正しいことになっていくのかなあ・・・それって諦観かしら?いや、希望的諦観ってことで。(爆)

「君と世界との闘いでは、世界を支援せよ」(F.Kafka)

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July 28, 2004

反逆の関西、或いは魂の陣取りゲーム

仕事がら出張が多く、週に2・3日は東京を離れている。
1回や2回であれば軽い観光気分にも浸れるのだろうが、毎週のように出張ともなると事情が違う。週明け早々の東京駅ホームに立った瞬間、既視感ある光景がシミュレーションされ、狭い脳裏を縦横に駆け巡ってしまう。正直に言えば、やや萎えかねないような、そんな気持ちもあながち嘘ではない。

さて、出張先は、これがまたちょうど東京と大阪の境目、名古屋。
関東と関西の、どちらの文化をも融合しうる地の利を有しながら、なおも独自の進化を遂げたこの街は、ある意味で異形の街ともいえる。(名古屋にゆかりのある方、ごめんなさい!!)ま、名古屋の面白さはまた別の機会に譲るとして・・・。

「出張はやや萎えの気持ち」と先述したが、そんな中、心密かな愉しみがなくも無い。げに、人間とはあくなき、快楽を消費する動物だと我ながら思う。それは一言で言えば、

                   TAKAJIN

である。そう、やしき・たかじん(55)。

東海圏は、関東と関西の熾烈な、文化的綱引きに遭っている。だが、深夜に名古屋で放映している番組を見ると、もう、大阪の勢いのすさまじさが分かる。ほんまに。そして、その代表選手は、「たかじん」の番組というわけだ。

たかじんくらい、東京圏と関西圏での露出の違いのあるタレントは居ないだろう。
彼自身、東京には数年に一度くらいしか来ない(し、来たくもないそうな)んだが、それがまた彼の希少性を増している。僕は名古屋の夜にたかじんを見ると、ただそれだけで、心酔わされてしまう。

凡百の当たり障りない東京のテレビ司会者は皆すべからく、たかじんを見習うべし。
番組の大半を『ピー音』が占めてても構わない。1回の番組で指し棒を3度折ってもいい。『宝塚のおばちゃん』で童貞を失ったあの日の思い出を、自虐たっぷりに話してもいい。
そういえば今日は、7月28日。「なにわの日」と言うそうな。

・・・僕の魂は、既に、陣取られたようだ。

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July 20, 2004

かさぶた

最初は嘘で塗り固めたかさぶた。

最初の目的が達成された後も、一枚一枚剥がされ、
しかし、残ったかさぶたの下には、真実があった。

ホンモノを貫くよりも、ニセモノを塗り固めるほうが、
もっと、もっと、難しい。

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July 16, 2004

祭りの輪の外で

通常でも、博多・天神は賑わいで溢れかえる街だが、7月になると尚一層凄い。
それもこれも、博多祇園山笠のせいだ。

山笠は例年、7月1日から15日がお祭り期間であり、15日早朝の櫛田神社入りの行事「追い山」でフィナーレを迎える。
「オイサッ、オイサーッ」という勇壮な掛け声とともに、明け方4時59分、一番山が入るとあたりは歓声と喝采、熱気に沸く。

・・・そこに、十年前の僕も、居た。

博多の予備校寮は大学生チューターが常駐し、門限や点呼も厳しかったが、夜中に僕は部屋を抜け出し、山笠へと向かった。浪人も二年目になると、それなりに神経が図太くなるものだ。
同じく博多で、安アパートを借りて独り暮らししていた友人が居た。中学時分の同級生で、成績が良く、何よりも、ガッツとポリシーのある奴だった。Nくんと合流したのは、追い山の日の深夜だ。

Nくんは現役で東京の大学に合格していたが、大学2年で中退。医学部を目指して再度受験をしようと、博多で独り暮らしを始めていた。梅雨のあとさきの頃、彼を偶然予備校のロビーで見掛け、それ以来僕らは意気投合するようになった。

彼とは、いろんなことを語ったが、中でも一番印象に残っているのは、「どうして自分のことなのに、一生懸命になれないんだ?成績は抜群なのに、おかしいよ。もっと、自分のために頑張らなきゃいけない瞬間があるだろ?」と言われたことだった。
二浪もしている身にとって、全国で1番取ろうが2番取ろうが、決して自慢なんかにゃならない。むしろダサい。が、当時の僕はそれでも、そこそこの下手な満足感を得てしまっていた。予備校でトップという井の中の蛙はそれなりに悪くなく、寮生活をしていたこともあり、おなじ寮生で成績の良くない奴なんかに勉強を教えたりもしていた。今にして考えれば、何を勘違いしてたんだ?自分・・・。

彼には、「大学ってどんなところ?」とよく聞いていた。
東京の大学で彼はいろんなサークルに所属し、最初の数ヶ月は大学生活をそれなりに謳歌していたが、ちゃらちゃらした雰囲気ややりたいことが見つからないという不満から、嫌になっていった経緯があるようだった。ただ、大学を知らない当時の僕にしてみれば、彼の口から出る大学はまるで毎日がお祭りのようにも思われた。Nくんのように幻滅するのかも知れないが、それにしても、入って見なければその値打ちが解らないだろう、と。
櫛田神社に着くまでに、僕らは飲み切った缶ビールを片手によしなし話した。

神社は早朝4時59分に近づくにつれ、心地よげな緊張感に包まれる。

瞬間、勇壮な1番神輿の連中が境内に突入。
雑念も煩悶も不安も何もかもを吹き飛ばす男の神輿は、櫛田神社をくるりと回って、そのまま表の街へと走り去っていく。神輿のタイムレースだ。ほんとに、閃光のように一瞬のできごとだった。
興奮は一気に弛緩へと導かれ、ふと見た東の空の白さは、忘れられない白さとなった。

祭りはやはり、眺めるよりも、演じるほうに居たいものだと思う。

暑い夏が過ぎ、受験が佳境に入るにつれ、Nくんとは連絡が取れなくなった。
あれから十年。風の噂では、僻地で医療に従事しているという。

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July 12, 2004

ビジネスは思想領域への侵食を止めよ

いつからだろう、書店の棚先で「成功するビジネスマンのマキャベリ交際術」だとか「クラウゼヴィッツの戦略思考」「アリストテレスがGMを経営したら」なんて本が並び、そこそこのベストセラーになってきたのは。

有史以来、人間は自然界のあらゆる動物の中でピラミッドの頂点に立ち、下位のピラミッドのあらゆる生態系を破壊し、好き勝手にやってきた。そのツケを払うためなのか、人間はいま再び「環境保護」「生態系保護」などと申し訳程度に唱えるようになった。
いくら力があるからといって、簡単に侵食してはいけない領域がある。

さて、ホッブズは権力国家の構造的に暴力的なありようを、旧約聖書上のモンスター「リヴァイアサン」になぞらえたが、僕には、いまのビジネスの猛威はまさに「リヴァイアサン」、悪し様に言えばある種の疫病みたいなもんだと思う。ビジネスは貪欲な怪獣である。経営学じたいは成立から100年程度の日の浅い学問なのだが、自分の畑の果実を食うには飽き足らず、他の学問を侵食することすること。冒頭で述べたクラウゼビッツ、アリストテレスなどはその好例だが、放っておくとあらゆる学問領域への食指を伸ばしかねない、そんな恐怖を感じざるを得ない。
ビジネスの病の怖いところは、あらゆる可視的・不可視的なものをビジネスというフィルターを通じて見ようとするところ。業務に、出世に、明日の銭儲けに、役に立つかどうかという解り易すぎる判断基準。そして、疫病にかかると自分も同じフィルターで世の事物を見始めてしまうからこれまた怖い。

こう書いていて自分自身、ケツの穴の小さい、了見の狭いことを言ってるのかな、とも思う。ビジネスの勢いを借りて、思想や文学や歴史学だといった学問が息を吹き返すのは逆に望ましいことではないか、と。でもね、その畑だって、清貧に甘んじて糞真面目に学問を積み重ねている学者が世の中には居るですよ。僕は政治思想を学んだこともあって、特にその気持ちが強いが、まあ、儲からない学問もあるわけですよ。日がな一日、「善について」「自由について」「共生について」「民主主義について」「暴力について」・・・こんなことを頑なに考え続け、車検の切れてそうなボロい車に乗り続け、袖口の擦り切れたスーツを着ている先生を知っている。
真面目に愚直に、累々と耕し続ける学者の畑に、何の権利があって土足で踏みにじれますか?一時の疫病が去っていったあとのことを考えたことはありますか?乱獲された後はさぞ無残じゃないんですか?

裏を返せば、ビジネスは権威や伝統性が欲しくてしょうがない領域なのである。経営学じたいは100年程度の学問だから、権威と言っても知れている。だから、「マキャベリ」だ「ジョン・ロック」だ「アリストテレス」だの思想世界のビッグネームを持ってきて、ハクをつけようとする。なんだか、いじましい。

ここでこれだけ憂いてみても、時の勢いは変わらないだろう。ビジネスはこれからも思想領域を侵食し続け、際限ない乱獲を繰り返すに違いない。でも、ここで偏屈者がひとりくらい、ビジネスの側の人間として居てもいいかな、なんて思って書いてみました。。

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July 11, 2004

Cafe de 人間関係(3杯目)

履歴書を書く機会があったら、趣味欄には「人間観察」とでも書こうかしらん。
行きつけのカフェで、行き交う人々の会話を聞きながら、さも仕事でもしているかのようにパソコンを打つのが趣味な私だが(悪趣味?)、今日の会話もなかなか面白い。

見た目は20代後半くらいかなあ、ローラアシュレイっぽい感じのブリブリした服を着たお嬢さんだが、向いに腰掛けた、ひとまわりは上であろう女性に、やおら、こう語りだした。

(アシュレイ子)「あたし、好きなひとに5回も告白したんです。で、5回振られました」

どうやらこのレイ子さん、学生のときに好きだった先輩がおり、その同じ先輩に5回も告白し、果敢にも振られたという戦歴の持ち主。僕はこの後、さらに、彼女の見た目の清楚さとのギャップに驚くことになる。

(レイ子)「4回目に振られたとき、それでもあたし、その先輩のことが諦められなくて、先輩の家を探し当てて、毎日のようにつけ回したんです」

(・・・それってストー○ーじゃん?)沈鬱な空気が流れそうになったその刹那、彼女は淡々と自戒を込めて話す。

(レイ子)「でも、5回目に振られた後、先輩、卒業しちゃって。で、卒業後に見た私服がちょっとダサくて、それで私、諦めたんです。制服のときはあんなにカッコ良かったのに・・・」

・・・良かったな、先輩。アンタのダサい格好も、ときには何かの救いになるもんだな。胸の奥から熱いものがこみ上げそうになるのを必死に堪え、パソコンを叩く僕。。と、彼女は最後の一撃を残していたのだった。

(レイ子)「結果的には良かったんです。いまのダンナをつかまえたし。いまのダンナは3回目の告白で、追い掛け回してオチましたけど。」

・・・したり顔のレイ子。

世の男性諸氏よ、勝ち目のない戦いに挑むのは、止しておこう。敵はこちらを兵糧攻め水攻めにするのも一向に厭わないぞ。
白旗は早めに掲げるべし。

・・・行きつけのカフェでは、様々な人間模様が、今日も展開する。


<(参考)過去のカフェ・ド・人間関係コラム>
1杯目
2杯目

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July 09, 2004

パンドラの箱の底には?

言葉に絶望した日には、死すら厭わない。

あわただしい日常の中で、言葉を操ることを生業のひとつにしている以上、言葉への信頼感は一入であるつもりだ。
でも、言葉の本質は、遠回りで空回りで、風に吹かれるままに流れる、そんな信頼に足らないもの。

何をか、永続的なモノや損なわぬ何かをその背後に見出したのか?甘い、甘い、自分。かなぐり捨てちまえよ。
言葉への過剰な期待感は、大きな幻滅感になって二者の間に横たう。切望の挙句、失望し、絶望するのがとどのつまり。なのに、僕らはコトバへの、盲目的な、あるいは、「こうなって欲しい」というだけの期待感を託し、すがって生きる。

いかなコトバも、その呼応する文脈や、既視感や、歴史や背景なしには、浮薄な存在だってことなのに。
コトバそのものには重さは無い。しかし、その紡ぎ方が糸の一部として、コトバを確固たらしめるだけなんだ。
どうして、こんなシンプルなことに気付かなかったんだろうか。

自由になりたい、言葉の鎖から解き放たれた、原初状態の自分を取り戻したい。
もし今でも、blogがlog(英語で実験・観察の日誌)という意を持つならば、ただただ素直で朴訥な気持ちだけでこう言える。

・・・コトバよ、今一度、僕を輝かせて欲しい。

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July 04, 2004

「下妻物語」

ついに出遭ってしまった。

shimotsuma.JPG

10代前半の僕に大きな影響を与えた漫画は、恥ずかしながらも「ハイスクール奇面組」だった。主人公たち奇面組の、何者にも阿らず遠慮せず、周囲に特異性を認めさせ、巻き込んでいくパワーにえらく勇気づけられた。

「他人と違っている自分、何処が悪いの?」

こうして小学校の後半以降の数年、僕は「変わり者である」というレッテルを望んで貼られるようになった。

・・・それにしても、「下妻物語」。
「あたしはおフランスのロココ時代に生まれる筈だったの」とのたまう主人公のモモコ。ディテールまでも小ネタ満載な作り込みっぷりは流石、中島監督のCM屋としての職人気質を強く反映している。友達が居なくても、家庭が恵まれて無くても、アタシはアタシ。好きな服を着て、好きなことだけを考えて、何が悪いわけ?
その、ある種無機質にも見えかねない主人公の乾いた心性は、ヤンキーの友達・イチゴの登場になって、揺さぶりがかけられる。

友情を通じたビルディングス・ロマン(成長物語)のひとつとしてカテゴライズすれば、スタンド・バイ・ミーのオタク女子版とでも言えなくない。が、そんなカテゴライズは正直どうだっていい。
自己が自己を獲得するたたかいは、いつの時代の、何処の場面でも起こりうるものだから。その意味では極めて普遍的な心情を描写した映画だと思う。

なぜこの時代に、この場所に、自分は居るのか?
モモコは若干居心地悪げだが、ロココ時代のフランスではなく21世紀の下妻だからこそ、この作品には味がある。スタンド・バイ・ミーでも、マイライフ・アズ・ア・ドッグでも、走れメロスでもなく、間の抜けた下妻の日常が終始、友情や差異を生真面目に語ることを避け、しかし、物語としては隙なく完成されている。

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July 03, 2004

すてたい自分、なりたい他人

「リプリー」という映画が、そこそこ好きだ。
終始、太陽照りつけるイタリアが舞台にも関わらず、明るさの欠片一つもなく、延々と主人公のドロドロとした内面を描き続ける。なんというか、精神的に健康な状態に有ったらあまり見たいとは思わないのだろうが、ちょっと疲れたときなんかに見ると色々考えてしまう感じの映画。(ちなみに、アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」のリメイクです)

この映画のテーマは、「自分が違う人格に変われたら・・・」ということである。

天性の明るさと美貌を備えた富豪の息子に憧れ、彼との親交を深める中でいつしか自分と同一化させていく。なんたって、マット・ディモン演じるこの主人公リプリーはまあ、天性のネクラな感じなんですよ。沈鬱な表情の連続、薄皮のように危うい嘘の積み重ね、、見る側をなぜかつい、陰気な主人公を援護したくなる気持ちに駆りたててしまう。

「天性の明るさ」とは言ってみたものの、あらためて日常の中で起こりうる「陽」と「陰」について考えてみると、実はけっこう操作可能な要素が大きいのではないか、と思う。上手な仮面の被り方と、我が心の奮わせ方、それだけではないだろうか。(「だけ」なんて言ってるけど、実際にはかなり難しいアートだと思う)

太鼓持ち、というとあまり良いイメージを連想しないのかも知れないが、江戸期の日本で座敷を場持ちさせることは一種のアートだったのではないだろうか。いまでは職業太鼓持ちこそ居ないが、飲み会で場持ちするひと、というのは居る。
陽気に周りを盛り上げる者、その陽気者に鼓舞される周りの者、そして、なぜだか所在なげに周辺でちびちびやっちまう者。僕の場合、陽気に振舞う者の心理と、所在なげに周辺に居る者の表情に、興味が湧く。

かつて場持ちの達人と飲みにいったとき、「かどぅさん、自分を捨てなきゃダメだよ」と言われたことがあった。
ハッと驚いた。このひとは生来の気質だけでなく、自分を捨てる努力でここまで人を鼓舞できるんだ、と。また同時に、『なるほど、この人にとって呑み会は周囲に対するホスピタリティそのものなのか・・・。自分は他人をエンターテインしようという思い遣りに欠けてたか』と少しばかり反省もした。
もちろん、場持ちはアートである以上、器用不器用が成否を分ける重要なファクターだと思うが。

一方で、もともとエンターテインの下手な内向きな人物が、精一杯、他者にお追従なんか言ったりしてるのを見ると、もう、抱きしめてやりたくなる。下手糞でもいい。醜悪なんかじゃない。
器用なひとなら軽々買えるであろう他人からの贔屓の念も、不器用な人物はなかなかぎこちなく、買うに買えず、見るに心痛く感じてしまう。でも、そのハードルを越える勇気と健気な努力をこそ、評価したい。

・・・大丈夫、誰かが見てますから。

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