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June 25, 2004

冷酷と慈悲の間で

誰しも、冷たいと言われるよりも、優しい人と呼ばれたい。でも、優しさは時として甘さを導き、冷酷さは時として正しさを導くことがあると思う。

いまから500年前、ルネサンス期のイタリアには、人間と組織と権力に対して優れた観察と分析を行なった思索家が居た。その名はニッコロ・マキャベリ。

machiavelli.JPG

彼の犀利たること極まりない名著「君主論」は、組織や人間が行動する上で今なお有効な示唆を提示し続けている。というわけで、、「第17章:冷酷と慈悲について。また恐れられるよりも慕われるほうがよいか、それとも逆か」より。

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君主は誰しも、慈悲深く冷酷でないという評判が欲しいものだろう。しかし、冷酷と揶揄されるのを逃れ、過度の慈悲のために無秩序をむざむざ放置してはならない。フィレンツェ市民はその支配下に有ったピストイアの内部抗争を、介入もせず容認していた。ピストイア内部の2つの門閥は互いに長きに渡り争い続けやがて、ピストイアじたいも破滅してしまった。
君主は自らの臣民の結束と忠誠心を保持するためには、冷酷という悪評など意に介してはならない。また、殺戮や略奪の温床となる無秩序を放置するよりも、一握りの見せしめの処罰を下すだけで、はるかに慈悲深い存在になる。無秩序は往々にして住民全体を損なうが、君主による処断は一個人を害する程度で済むからだ。

では、恐れられることと、慕われること。2つに1つを手放すとしたら、どちらなのか?それは、慕われるよりも、恐れられるほうが安全だということがいえる。人間にとっての恩や愛の感情は義務の鎖に繋がれている。そして人間はこれが自分の利害に反すると、すぐにでも断ち切ろうとしてしまう。しかし、恐怖は自分に付きまとって離れない処罰の恐ろしさで繋ぎとめられているのだから。

君主は、慕われないまでも、憎まれることを避けながら、恐れられる存在であるべきだ。恐れられることと、憎まれないことは十分に並立しうるものである。他人の所有物や財産に手を出さない限りにおいて、憎悪は簡単には生まれない。君主たるもの、この感情をうまくコントロールして臣民を統治することが肝要である。
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基本的にマキャベリは、性悪説的に人間を捉えているふしがある。ホッブズの言葉を借りれば、各人が自然で平等状態にあるとき、「万人の万人に対する闘争」状態へと陥ってしまうものなのだ。この前提の偏りを差しひいて考えたとしても、極めて面白い洞察だと思う。
ここからは僕の私見だが、政治を後天的に志す人間(少なくとも当時のマキャベリは市井の人間から、フィレンチェ政庁の書記官になるという職業政治への道に入ったわけで)にとって、組織や人間に関するある種の杞憂や、観察眼は研ぎ澄ませるだけ研いでおくべきだろうと思う。若きマキャベリも恐らく、その犀利な人間観察眼は、人間につきまとう、さまざまな挫折や煩悶や怨恨の感情を考え抜いたことから生まれたのではないだろうか。

冷酷と慈悲という態度様式は、それ自体二値的に見えるけど、その影響を及ぼす範囲と時間的な永続性を考えれば、必ずしも慈悲が良い選択ではないってことなんだろうね。。俗な言葉を使えば、安っぽい満足感で、高所大所の幸福を見失ってはいけない、ということなのだろうか・・・。

何はともあれ、マキャベリ。決して権謀という意味ではなく、人間によるアート(技術)としての政治をこのように書き記せることに、ただただ、驚嘆せざるを得ない。冷酷と慈悲、恐怖と憎悪。

往々にしてひとは、身なりの良い詐欺師に騙される。
甘言を以って近づくのはただの甘やかしかも知れず、利己的な心情から発生する慈悲心に利用される。一方で、自分を真に助けるとも知らず、耳障りの悪い言説を聞き入れたくない心情もある。ことの真贋を見抜くのは本当に難しい。

ひとがひとを知る試みには、自分とのたたかいが索漠と背後に広がっている。

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June 21, 2004

実況:新幹線大停車中。

いま、新大阪行きの車中。
この台風のせいで、途中で新幹線が止まってしまい、足止めを食ってしまっているのだ。

日本人は、つくづく、物分りの良い、理性的な人種だと思う。
件の阪神大震災のときにも、ビル建物が崩壊している中、信号を待ち、整然と列を成している様を諸外国のメディアが驚いて報じていたなあ。

しかし、新大阪行きのこの新幹線は、いつ、復旧するんだろう・・・。目的地につけるのかしら・・・。

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June 19, 2004

耽溺する筋肉

70年代フォークにハマッて、かれこれ10年以上になる。

「愛」だの「恋」だのを歌ってみたり、「逢いたい」だの「想いを伝えたい」だの、80年代以降のロックやポップスはその内向的な思いを第三者に認めてもらいたくて仕方が無いわけだが、60年代の終わりから70年代にかけてのフォークは違っていた。「仲間と語らいたい」「社会を変えたい」とエネルギッシュに唄ってみるかと思えば、とたんに枯淡のような情景を歌い上げたりする。ともあれ、音楽にはあまり明るくない僕だが、ある意味で80年代以降の歌は、主観を回復する試みだったのかも知れないな、なんて思ったりもする。

路地裏の片隅で、くの字にぶっ倒れて空を睨む痩せこけた青年。これが僕の想像上の長渕剛だ。
遅れてきたフォーク青年は、世界を変えたい仲間を探したいけど、関門海峡を越えて来てみれば、変えるべき世界も一緒にこぶしを挙げる仲間も見付からず、、途方にくれて女々しい恋唄を叫ぶ。男、ひとり。

げに、思い込みって恐ろしい。
ふとあるとき、気付いた。久しぶりに長渕をテレビで見たら、すいぶんと逞しくなっていたことに。長い髪は坊主に、女々しい恋の唄はなく、サングラスの奥でどんな眼をしてるのか、もはや窺えなくなっていた。身体を鍛えているとかいう彼は、司会者の前でとたんに、腕立て伏せを披露し始めた。。

岡林信康に高田渡に、山本コータロー、、フォークシンガーは痩せていると相場が決まっているもんだ(これはボクの思い込みですが(汗;))
・・・身体なんて鍛えて、どうする?

身体を鍛えるといえば、そういえば三島由紀夫も、映画「タクシードライバー」のデニーロもムキムキやってたが、身体を鍛えるときには、何かしらの覚悟をしているもんだ。ニーチェは、肉体的健康がルサンチマンを払拭する条件かのように書いていたが、兄貴はそこまで達観しているようには思えない。
悪いがボクには、あの筋肉に思想も覚悟も、見出せなかった。しいて言えば、「健康維持管理」かな?

その後兄貴は、大晦日紅白にはベルリンの壁の前で何曲も熱唱し、サザン桑田圭祐に喧嘩を挑み、共演女優と不倫しそれを奥さんに庇い立て会見されるなど、相変わらずのファンシー・フリーっぷりを見せている。でもそれでいいんだ。だって、アーティストなんだもん。

・・・あてどころ無き筋肉の行方だけが気に掛かる。

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June 12, 2004

犬は吼えるが、

みなさんとっくにお気付きでしょうが、かどぅちゃんねるは巨大掲示板サイト「2ちゃんねる」に名前をあやかっております。いまを遡る事、5年とひとつき前、インターネット世界に産まれたこの革命的なウェブサイトは、当時の僕を朝から晩まで虜にしました。

豊富な話題(板)、センセーショナルな事件(佐賀県の少年バスジャック事件予告など)、「逝ってよし!」「オマエモナー」に代表された2ちゃん語・・・。
でも、何よりも僕が面白く感じたのは、「名無しさん」が生き生きと掲示板の中を闊歩するダイナミズムでした。

実生活ではまったく縁もゆかりも接触もない、それこそまさに「名無しさん」が、あるトピックを肴に喧々諤々の大論争ができる。
そこは、成りすましも芸能人も学者もネカマも関係なく、ひとはいつ通り過ぎ消えても構わない、ただロゴスだけが支配する楽園に思われました。

最近、知人の紹介で、とあるコミュニティサイトに登録しました。個人名(姓名)を入力し、ハンドルネームを指定して、これで入会完了。コミュニティサイトなので、基本的には人からの紹介でしか入れません。知人間でリンクを張ると、その知人の数を括弧付き・他人紹介つきで表示させることができ、学校名や会社名や趣味なんかでグルーピングすることも可能。
サークルだ、会社の同僚だ、趣味仲間だ、のある種のコミュニティの中で議論やネットワーク構築を深めたいと志向するひとには、これ以上に利便なサイトはないかも知れません。ネット社会ってここまで進んだんだなあ・・・。

・・・しかし、この会員制コミュニティには、何やら薄ら寒さを感じなくもない。

基本的には知人同士のネットワークなので、お互いを紹介しあって成立するわけだが、その紹介文のほとんどは個人への誉め言葉から成立している。そらそうだ。日常のセイカツを持ち込んでいる以上、そこには上司に部下に同僚、先輩や後輩、親に兄弟、、あらゆる糸に絡め取られるようにできている。知ってるひとのことなんてそうそう悪くは書けんもんだよ。

こういうサイトを待っていたひとは多いのだろうが、自由きままに何かしら表現をしたい人間にとって、この手の「手加減」は致命的な制約だ。書きたいこともろくに書けやしないような表現ツールなんて、組合の機関紙以下の価値もない。
荒野に出られない臆病犬は、せいぜい犬小屋で吼えてりゃいいんだ。

どうやら、僕には、野良犬のほうが性に合っている。

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June 09, 2004

こいびとフェチ

こい人が好きでしょうがないです。
・・・あ、とは言っても僕のブログで「恋」の話なんて書くわきゃない。

正しくは「濃い人」と言うべきでしょうか、テレビなんかでたまに見かけると、僕のハートの体温計が2~3度の上昇を示しちゃうような、そんな芸能人がおるのです。というわけで・・・

◎原田大二郎: 濃度★★★☆☆

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栄えあるトップバッター。さすがに、濃いですね。。>顔
僭越ながら、大物俳優としての腕前もたしかで、映画「敦煌」や「女帝・春日局」でも素晴らしい演じっぷりでした。ただの濃い人で終わらすにはとても勿体無く、理不尽な命令をする暴君なんかを演らせればピカイチの存在感と迫力です。

◎志垣太郎: 濃度★★★★☆

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続いては、志垣太郎。はなはだうろ覚えですが、「あかんたれ」。子供の頃は欠かさずみてました。人情ドラマにこの人が出ると、それだけで深みが増してしまうのだから、あら不思議。テレ東大好きな小生としては、土曜夜の旅番組・グルメ番組のレポーターとしても、いい感じ。お昼間のテレビショッピングで商品説明をさせたらば、ダチョウ倶楽部と双璧を為すだろう、そんな妙味ある役者さんです。

◎ルー大柴: 濃度★★★★★

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「こい、来い、濃い、恋!」((C)氣志團「恋人」)
いやあ、、まさかこのブログでルー大柴を語るとは・・・。あの欽ちゃんも所属している浅井企画のタレントさんですが、最近ではお笑いタレントというよりも、舞台俳優としてのほうが有名でしょうか。(しかし、浅井企画って、関根勤とか車だん吉とか見栄晴とか、、僕のツボを突く役者さんの宝庫ですね・・・)
テレビに出始めたときには既に、いい年したおじさんだったルー。自らを、国際派スターと言い切り、衒いに溢れた饒舌さを見せるルー。ルー、ルー、ルー。もう、ゲップ。CH3CHO(アセトアルデヒド)に例えれば、0.5ppmをかるーく、上回るんじゃないだろか?ともあれ、あのねばりけある感じとアクの強さと、あくなきエネルギーの放出っぷりには軽い感動すら覚えるのは確かである。いつまでも、日本が産んだ国際派スタアとしての気概を忘れないでいて欲しい。

・・・いやはや、ついつい語っちまった。
いずれにしても言えることは、これらのタレントさんが出てきたら、もうそれだけで、僕のチャンネルを変える手が止まってしまうということだ。実に、刮目に値する、一挙一動が気が気でならなくなる、まさに、ツボ。

驚くことに、僕の身の回りで彼らを嫌悪するひとは少なくない。けど、僕は譲りませんよ。彼らの姿をちらと見るだけで、何やら不思議なものがココロに突き刺さる。暖かさとは、熱運動のことじゃあないのかしらん、なんて思ったりもする。

いつでもどこでも効く万能薬なんて、あたしにゃ未だ早い。いま、この瞬間に欲しいのは、特効薬なんだよ。

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June 06, 2004

「スクール・オブ・ロック」

『無職でデブなオタ男が、くそ真面目な子供たちに、ロックを教えることで、次第に彼らを変えていく』

schoolofrock

なんてベタベタなストーリーなんだ。伏線も糞も無い、予定調和なハッピーエンド、人間関係への追究も、個々人のプロットの書き込みも足りない。。そこらへんの映画通気取りならば、きっと大きな「×印」をつけたくなるだろう。

・・・しかし、この映画、俺は心揺さぶられました。もっともらしい小理屈も能書きも要らないぜ。

折り目正しきロックの精神は、「反逆」や「反体制」にあった。これもちょっと古いロック観だとは思うが、それがいい。劇中使われる音楽がまた古くさい。パープルかよ、ジミヘンかよ、、それがまたいい。

この懐かしさ、古臭さ・・・何処かで見たような・・・と思ってたら、ひらめいた!

札付きの不良(ワル)たちが、ラグビーを通して更生し、世に認められていく、往年の感動スポ根名作ドラマ。「スクール・ウォーズ」だ!(もちろん、役割関係をひっくり返したってことだが)

最初の動機は不純でも、次第に子供たちとの触れ合いをいとおしく感じていく中年オヤジをジャック・ブラックがよく演じたと思う。決して器用とは言えない演技だが、素の感覚がよかった。そういえば、この、「不純な動機(≒贋物)にも、美しさがある」というのは僕の嗜好にもピッタリなのだ。⇒参考コラム

新しさは無くったって、隙だらけだって、楽しめる映画は、それだけでいい。

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June 04, 2004

三人称の自分、一人称の他人。

いかにも一人っ子らしく、幼少の頃は親や周囲の人々から、あれやこれやと手を差し伸べられることが多かった。
気が付けば、「『自分』を我慢しないで主張できて当然」なふうに育ったところもあります。

いつでも「自分」尺度が一番で、「あたしは・・・」「ぼくは・・・」と、主張だけしていればOKだった時代。

時代の空気もよかった。
当時のバンドブームや小室サウンドを中心に、「自分らしさ」や「あたしらしさ」を追求するような自己実現ソングが真っ盛りであった。しかしその多くは、社会学者・マズローの唱えた欲求五段階説の最上位に位置する、「自己実現欲求(=自分の中に潜む可能性を探し、発揮する欲求)」とは違い、単にエゴイスティックに、自分をとりまく環境が我欲の追求を認めるものであって欲しい、というものだったように思う。

同じバンドブームの中でも大槻ケンヂは、「子供の頃は誰しも自己中心的な『天動説』で生きているが、しだいにオトナになるにつれて、『地動説』にならざるを得ない」とエッセイに書いていたが、それはその通りだと思う。

そして、僕らは自己主張が下手だと思う。
「自分が」「わたしは」の一人称単数の世界は、往々にして他人からの共感が得られない可能性が高い。よほどの親切な人か、好意に溢れた人でも無い限り、「あたしは」なんて言われた瞬間に、パタッと聞く耳をふさいでしまいたくなるのに、それに気付かず、一人称を使い続ける。一人称で話された瞬間に、それは「他人様」のどうでもいい話へと堕落してしまうのに。。

単なる技術論に過ぎないのかも知れないが、自分のもつ不満や欲望も、二人称や三人称を仮借してしまえば、もっと簡単に欲求を実現し解消することができるのに、と思う。「アタシ」のことなんて他人は興味を持ってくれない、けど、「カレ」や「キミ」のことなら、耳目も集まる。忘れちゃいけないのは、他人だって、エゴな存在だってことなんだから。

とはいえ、一人称単数の自分は場面によって、それなりに強度のある言葉なのは事実だ。自分を語りたいなら、人称をうまく使い分けるといいのでは、と思う今日この頃。

嗚呼、こんなこと書いてる自分はとことん、「自分好き」なんだなあ・・・。

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