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May 23, 2004

映画音痴の映画観

このブログでも頻繁に映画に関して書いているが、実のところ、映画はあまり詳しくない。
・・・というか、ゴダールだヴェンダースだ、のビッグネームについては、あまりにも偉大な先達が評論する対象に祭り上げられてしまっていて、自分ごときが新たな価値観や何かの論評を呈することができないのでは、という気後れ感を持ってしまうこともあるからである。

ともあれ、自分はいわゆる映画通向きの映画評などにはとんと興味がなく、またその評論のための文法もろくすっぽ知らない。そんな自分が、映画を見るときに、とても大事に考えている指標は2つ。

ひとつは、大団円主義。
これはあらゆる表現物に関して言えるのかもしれないが、やはり、めでたく爽快な終わり方はいい。終幕には何かこちらを昂揚させるものを残して欲しいと思う。次のブログで取り上げようと思うが、先日観に行った「スクール・オブ・ロック」も久々にこの大団円を感じたし、「ブルース・ブラザーズ」なんかもまさに、観終えたこちらの爽快感を大事にしていると思う。

いまひとつは、笑えるペーソス。
やはり、感情の高ぶり荒ぶりを表出してこその演技だとは思う。物悲しい表現は古来、演歌の世界の情念としてもおなじみだ。が、それではあまりにも直裁的だろう。ぺダントリーを気取るわけじゃあないけども、いかに哀しい気持ちであっても、それを笑いながら表現してくれるテクニックがある、とこれはもう一級品。

読者観客はバカじゃあない。うまい料理をただ、「うまい、おいしい」なんて言われてても、何の美味しさも伝わらないってんだ。

哀しい感情を泣きで表す直裁さも重要だけど、そこで笑ったら、それこそ僕は泣く。たまにこういう演技に出遭うときはほんとに嬉しく思える。

映画ではないけど、ドラマ「天国への階段」のいち場面。死を決意した加藤雅也が、辛酸をともに舐めてきた社長の佐藤浩市に、タバコを一本貰うや、愛おしそうに味わうシーン。もう、泣きました。繰り返しビデオで観ては泣きました。。

おいっ・・・っと話が映画から少し逸れました。
ま、映画知らずの浅い審美眼かも知れませんが。僕はこういう映画と出会うことをこれからも大事にしたいな、と思ったりもいたします。。

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蝙蝠の迷走。

むかし、「けものの国」と「とりの国」が大戦争をはじめたときのこと。

獣の国では鳥を捕まえ、鳥の国でも獣を捕まえ、お互いに殺しあっておりました。
そんな折、洞窟から出てきたのがコウモリ。
獣はコウモリを捕まえると、「こいつは羽根があるから鳥の仲間だ、殺そう」と。

コウモリさんは言いました。

「僕の顔と体を見てください。ネズミそっくりでしょう?僕はネズミの仲間なんです。君たちと同じ獣の一種なんです。」

なるほど、と獣たちは納得してコウモリを釈放しました。しかし今度は鳥の国の兵隊に捕まってしまった。 
「おい、こいつは顔も体もネズミそっくりだ。獣は敵だ。殺そう」と。

そこで、コウモリは言いました。

「僕にはこんなに大きな翼があります。こんな獣がどこにいますか?僕は君たちの仲間なんです。」

こうしてコウモリは難を逃れました。(「イソップ物語」より)

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僕はとあるIT・会計系コンサルティング会社が社会人生活のスタートでした。
その会社では、来る日も来る日も、プログラミングやらバッチ処理やら、データ移行管理やらをさせられておりました。
が、会社の体裁はコンサルティング・ファーム。お客様の前に立つときには、急に「経営コンサルタント」の仮面を被って堂々と意見を言わねばならない立場に。。

がんらい知行不一致が売りの私には、こんなどっちつかずっぷりの自分のありようはさほど苦手でもなかったんですが。。

いまだに続く、蝙蝠癖。
いっぱしの思想家をきどってみても、文芸や映画や思想には思索の深みが足らず徹底しきれず、しかして、ビジネスマンとしては脇が甘く本性的な嗅覚の部分で自分には向いてないのでは、と煩悶。
そのくせ、プライドの高さが邪魔をして、思想の世界にはリアルビジネスの見地から、実ビジネスの世界には思想哲学の視点から、つい自分の身を都合よく置いてしまうこともしばしば。。
ふと気が付くと、20代も終わりに差し掛かった。

・・・蝙蝠よ、つぎは、何処へ?

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May 20, 2004

アキバでリュックを背負っている人は約85%(ソフマップ店頭調べ)

アキバBlog(秋葉原ブログ):アキバでリュックを背負っている人は約85%(ソフマップ店頭調べ)

アキバBlogに、こんな記事が載ってました。いったいどんな意味がある調査なんだ?ソフマップ??
そして写真といい、、小生も軽い眩暈を覚えました。登山用バッグですか・・・という感じで。それにしてもこの写真、いかにも過ぎて、腹が痛い・・・・。

akiba.JPG

何回か前のブログで、「これからはリュックサックの時代が再び来る!」と書きました。⇒参考コラム
しかし、まだまだ道のりは長いようですねえ・・・。

ちなみに僕の想像してたリュックは、こんな感じ↓

gucci.JPG prada.JPG

・・・ま、所詮、かばんなんて、モノが入りゃいいんだろけどさ。

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May 15, 2004

美容師に学ぶ人材育成

行きつけの美容院で髪を切ってきた。

美容師の世界は完全分業である。髪を切る人、染める人、洗う人、乾かす人、マッサージする人、床を掃除する人、、、そういえば、ちょっと前まで「髪を洗ってくれていた人」が、今日は「マッサージする人」になっていた。これはどうやら、このヒエラルキーの中で出世したということであろう。

カリスマ美容師ブームやなんかで一時期脚光を浴びた業界とは言え、いまだに根強く徒弟制度は残っている。
お客の髪を切れるようになる(いっぱしの美容師デビュー)まで、このお店では最短で3年はかかるという。一日中立ちっ放しで足腰を悪くしたり、お湯で手がカサカサに荒れたり、薬剤を利用するので手がかぶれたり、、そして、髪をサクサクと切る様に憧れて入った業界なのに、お客の髪をいじることは許されない。そういう様々なフラストレーションも有って、辞める子は決して少なくないという。そりゃ、技術が今日明日で身に付くなんて、そんなに虫のいい話もないんだろうけど・・・。

それでも、「おカネを貰って修行をさせて貰っている立場」と本人たちは捉えている。また、お店の人曰く、工芸や飲食など他の職人修行に比べて、3年という期間は決して長くないそうだ。・・・見上げたものです。

僕の通うお店は何店舗も支店を構える人気店なので、美容師デビュー後も決して楽ではない。
お客から指名を貰うことは何よりも大事だが、常に新しい技術を勉強し続けること、国内外のヘアスタイルのトレンドだけでなく、服飾全般に対するアンテナを高くしておくこと、その時期時期の流行の色を知ること、新しい美容製品や薬剤なんかの知識を持つこと、なんかもあるらしい。また美容師キャリアが長くなると、「いち美容師さん」としての立場から、「店舗のマネジメント」面まで担わされるようになるという。毎月の顧客の増減と売上高、従業員の育成、店舗のデザイン、海外とのアライアンス、他店の売上動向のチェック、業界でのプレゼンス策や広報宣伝、、こんなことも、「いち美容師」が考えなければならなくなるという。

僕は昼間はコンサルティング会社勤めをしているが、実に構造的には酷似している。最初はクライアント(お客様)の前には立たせてもらえず・喋らせてはもらえず、議事録を書いたり図表を作ったりの日々。やがてきちんと基礎的な読み書き能力を身につければ、その後、クライアントの現場担当者レベルとの話し合いに参加できる。しかし、ここではあくまでも「お話ができる」レベルであって、なんら意思決定をできるわけではない。こちらが次第にレベルを上げる(それだけの意思決定に関わる能力が身に付く)につれ、クライアントも意思決定可能な人物との交渉・話し合いが可能になる。。。

どこか徒弟制度的な側面があったりするところや、育成のために自分を鍛え続け、アンテナを高く持ち続ける点。そして、自分のことばかりを考える立場から、次第に全体のこと部下のことも考えなければならない立場に・・・。

2時間半、変わる変わる僕の髪の毛を取り巻く人に囲まれながら、何やら頑張りたくなるような気持ちになりました。

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May 11, 2004

わが心のラヴソング・ベスト3

やれ、哲学だ、政治思想だぁと普段書いている自分からすれば、キャラクターではないのは重々承知だが、たまには書いてみたい。というわけで、わが心のラブソング。

で、早速ですが、ベスト3と言ったけど優劣がつけられないので、三つ並べます。(この辺の不手際さが、小生のラブソングに対する苦手感をよく出してるでしょ(笑))

「ジョニーへの伝言」(ペドロ&カプリシャス)
いきなり、小生が生まれる前の曲(1973年)ですが(汗)。先日NYに行ったときにも、頭の中のラジオは「五番街のマリー」とこの曲をえんえんと・・・(以下略)。
この曲の短い歌詞の中で唄われる、去り際の切なさ、凛とした様を無理にでも装ういじましさ。その気丈さが心を打ちます。ちなみに、「五番街のマリー」はこのジョニーへの伝言に対しての男性側からの呼応なんですよね。この曲と併せて聴くとなるほど、時間の経過のズレと交錯するふたつの感情がとても胸に沁み入るラブソングです。

「君に捧げるラブソング」(岡林信康)
我が敬愛するアーティスト・岡林信康についてはいずれこのブログで、かなり長々と書くつもりですが。まずはこの歌について。愛する誰かの悲しみ、心の痛みが解っていながら、どうすることもできないもどかしさを綴ったバラードの名曲です。
岡林さんの声がまた、いい。この人はある尖った思い・情念のようなものを、何らの加工を施さずに目の前に突きつける野蛮さと荒っぽさが魅力だけど、反面、際限ない優しさに裏打ちされた何か遠くで実景を眺めている距離の遠さがまた、いいですね。

「笑えない道化師(ピエロ)」(蓑谷雅彦)
恋に傷ついた彼女を励ましたくて、間抜けな役回りと解っててもそれを演じ続ける男の切なさを、ピエロに例えて歌い上げた珠玉のバラードです。愛というよりも、恋を唄った唄のようにも思います。あ、一応、「愛」と「恋」の違いも書いておかねばですが、、ボクは坂口安吾の「恋愛論」の定義が合点です。
「愛」は何か既に得てしまったものを慈しむ、いとおしむような気持ちでしょうか。昔はこの言葉が無かったので、基督教が日本に入ってきたときは、「神の愛」のことを「デウスのごたいせつ」と訳したそうです。なんとも粋な訳語ですね。一方、「恋」はまだ得ぬものに対して、何処か狂的に手に入れたくなるような、焦がれるような気持ちでしょうか。
蓑谷さんは北海道在住のアーティストとして、いまも活動していらっしゃるそうです。

しかし、このブログでラブ・ソングに触れようとは・・・。また何処かで、恥ずかしげもなく披瀝する気分になるかも知れませんが。。

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May 10, 2004

「青春の殺人者」

向かう青春があれば、去る青春もある。

昨日米国の出張から戻ってきたが、成田空港からバスで帰る途中、頭の中のラジオは、ゴダイゴの"If you are passing by that way"をエンドレスで流していた。あれほど、克明に映像と音楽がマッチする映画シーンも珍しい。

seishun.JPG

向かう青春を描いた映画は多い。たとえば、米国出張で成田空港に向かうときの自分の気分は、「真夜中のカーボーイ」の冒頭、ジョン・ボイトがNY行きのバスに乗っているような感じ。何かを獲得するためにエネルギーを使うのは、青春の常套手段だろう。映像的な明るさこそ違えど、大林監督の「青春デンデケデケデケ」なんて、向かう青春そのものだ。

何かを失い、去ることで青春を表現するならば、この映画の最後のシーンがまさにそうだろう。ふた親を殺し、遺棄し、恋人を捨て、家を焼き尽くし、そして何処にか行き方も知れぬトラックの荷台に身を任せる。あの、主人公・順(水谷豊)の不安げな表情。もう、これだけでいい。

この時代は折しも、戦後すぐの親世代が集団就職などで大都市に出て、がむしゃらに働いた末に中産階層を為しており、子の世代はその労苦の上に青春を謳歌するという絵図が有った。その青春の謳歌の仕方は様々だが、ときに学園闘争や学生運動であったり、この映画でも出てくる三里塚闘争だったりするわけだが、いずれにしても、この時代特有の匂いは、叩き上げた父権の自信と、それに対抗する子世代という構図から起因していたのだと思う。

そして70年代の中盤以降に産声を上げた僕らの時代には、この匂いすら嗅ぎ取ることが叶わなくなった。それは、80年代以降世代の持つ、社会に対するアパシー(apathy:無気力・無関心)がそうさせたのかも知れないが、ともあれ、僕らには、積極的に殺すべき青春すら残っていないようである。

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May 08, 2004

幸福の質量保存の法則

「質量保存の法則」:化学変化の前後における物質の総和は不変であるという法則。質量不変の法則。(A.L.Lavoisier)

水戸黄門の主題歌では「人生楽ありゃ、苦もあるさ」と唄われている。確かに、一人の人生、良いことばかりも悪いことばかりも長くは続かないものだ。まあ、この唄じたいも、日本人が好みそうな諺「楽あれば苦あり」「苦は楽の種」から発しているのであるが。

しかし、実のところはそうだろうか?
いったいぜんたい、世の中というのは公平にはできていないものである。
富める者がいれば、貧しき者もいる。健なる者がいれば、病める者もいる。美なる者がいれば、醜なる者がいる。世の中、公平なんかじゃない。面白おかしく一生を送り続けられるひとも居れば、不遇で悲惨なまま人生を送るひとも居る。ひとの幸福なんて不変等則ではない。

・・・けどやはり、幸福の質量は不変なのではないだろうか、と思う。

これは「一個人の人生での幸福が一定量」というのではなく、「社会全体での幸福・不幸福の量が一定」ということではないだろうか。社会全体を大きなバランスシートに見立てれば、幸福と不幸は均衡を取り合っている。ある者の幸福はある者の不幸から産みだされる。
そんなとき、不幸なひとは己の不遇を嘆いて逃れたくて、スイッチを切ろうとする。が、これは間違いである。というのは、幸福と不幸はバランスしているわけだから、自分が居なくなっては、社会でのバランスが取れなくなるからだ。
他人様に迷惑を掛けてはいけないのは、人生を送る上での最低限のルールではないか。

ボクは別に、基督教のように「来世」を想定して、現世と来世での幸不幸の分量が相殺できる、などと唱えるつもりはない。
でも、幸福なひとは幸福をいつまでも持続はできず、往々にして簡単な幸福では喜べない体質になってしまう。逆に、不幸なひとは不幸馴れするが故に、少しの簡単な幸福で満足できる体質になっている。そういうものではないか?

世界には満足にモノを食べれないひとが数多く居る。一方で、米国には唸るほどの食料と明らかに太り過ぎな者がいる。腹八分などという言葉も無く食べ続ける者にとって、少しの空腹感は許せないものであろう。反面、満足に食事にありつけない者にとって、少しの食事でも天頂に昇りそうな幸福感が得られるだろう。食料の量という相対的な幸福の尺度では明らかに優劣があるのに、幸福の度合いはどうだろう?

幸福のインプットはいずれも同じなのに、主観というフィルターでいかようにでも、化学反応を起こすことができる。そういえば、化学の実験でも、燃焼させた後で、物質の重さが変わっていたような・・・??

なに考えてるんだ、俺・・・暇にまかせて、こんなことを書いてしまいした。。

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May 04, 2004

アメリカ人にお菓子のワビサビが解るか?

アメリカ滞在3日目。

米国に来ていつも思うのは、「食のバラエティが微妙」ということだ。肉・魚・野菜・・・素材の種類はむしろ日本よりも多いくらいなのに、調理法やテクニックが驚くほど乏しく思われるのは僕だけだろうか??飾り包丁でも入れて見ろってんだ!カツラ剥きしてみろってんだ!なんて思ってしまう。
とりわけバラエティに乏しく感じられるのは『お菓子』。お菓子好き男児・日本代表としては、こちらは許せないものがある。

日本のお菓子は、ある意味で求道者好みの世界だ。
薄塩のり味・コーン味・北海道じゃがバター味・コンソメパンチ味・・・・いったい何種類あるんだ、ポテトチップス。
味つけのバラエティが豊富なことも驚きだが、食感を操作し、おまけのはずの食玩にも異常なほどの細部へのこだわりを見せる。

「板チョコでござぁい。ほら、食え」こんなアメリカ商法じゃあ、日本の消費者はとても満足させられないだろう。

この滞在中にアッと驚くお菓子が発見できることを、少し期待している。

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May 03, 2004

こちら、シアトル。午前7時。

このブログを書いているいま、シアトルは朝の7時。ゴールデン・ウィークの旅行ではありません!仕事で来ているので、ゴザイマス!

とはいえ、別にゴールデンウィークにも仕事で出張する自分を哀れむ気分はないっす。
思うに、海外に来るとなんだか気分が昂揚するもので、それはもしかしたら、英語を喋るのは異国語を喋るという意味で、「気合モード」のスイッチがオンしないと話せないからかも知れません。(一方で、やはり日本語は沈鬱なときの自分の気持ちを、バラエティ溢れて伝えるに適する言語だとも思ったりします...)

今週は何回更新できるかわかりませんが、まあ、米国の写真なんかも添えながら、ブログを書いていく1週間にしてみます。

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May 01, 2004

自由主義と共同体主義(2/2)

とかく、日本の政治といえば、右と左で論じ分けられることが多い。
なるほど確かに、日本では両者ともが相譲らぬ勢力を持ち、それでいて合わせ鏡のように互いが互いを批判し続けてきた経緯があり、判りやすく議論を識別させる、ある意味でリトマス紙のような役割を果たしているのは事実である。しかし、このリトマス紙、時として議論の混沌に陥らせる原因でもあるようにも思われる。

今回のイラクにおける日本人人質事件はこの議論の限界をよく示しており、右と左で論じ分けた瞬間、論理破綻に陥ってしまう。
3人の元・人質に対して、右派(仮に、政府関係筋・産経新聞などとする)は「自己責任」を訴えたが、これはある意味で国家として行なえる機能の限界・放棄を裏付けた発言である。別に国家機能の限界があること自体は間違いではないが、右派としては、「再発を防止するためにも、国家のもつ個人への制約力を最大限に発動すべし」というのがまだ理解しやすい主張だと思うのだが・・・。
一方で、左派(仮に、一部の市民団体・朝日新聞などとする)の主張もまた理解に苦しむ。彼らの多くは、国家による個人生命の保護を訴えたが、保護の裏返しは国家による制約の許可につながらないか?とりわけ、あの状況でイラクに入った人間であれば、一定の思想信条に基づいて行動したわけで、その邦人を救出する行為はある意味で彼らの自由な思想信条に基づく行為を妨害したことになる。左派なら、「本人の思想信条に基づく行動なんだから、その行動の帰結も含めて自由にさせてやれ」というのが常道ではないか?

・・・とまあこんな風に、左と右だけで形勢を読むと、途端に理解不能に陥る。

でも、下記のコラムで書いた、自由主義・共同体主義の枠組みを当てはめれば、どうだろうか?少しは問題に関する靄が晴れませんか?つまり、右と左の議論だけでは、フレームワークとしての切れ味が悪いこともあるのです。

話を自由主義と共同体主義に戻せば、この議論は日常の社会でも十分に機能しうるものである。例えば、会社組織で考えてみると・・・。
自由主義:「個々人ができるだけ自由なワークスタイルで仕事に取り組む」こと、これはモチベーションの向上や組織の拘束度に対する満足感をもたらすことになる。しかし、個々人が完全自由に仕事をすることなど、本来的に可能なのか?短期的には良い成果を挙げられても、組織としての統一感や人材の長期育成には結びつかない恐れもある。また、そもそも完全自由な個々人であったら、「組織」として共同する意味もないかも知れない。
共同体主義:「組織としての統一感を優先して個々人にある種の枠組みを適用する」こと、こうすると、一枚岩の組織が形勢され、組織力が発揮されることもある。が、その中での成員の満足度は?人材の個人的な貢献の尺度をどうはかる?時代に逆行してないか?

まず言っておきたいのは、この両者は結論の出る話ではない、ということだ。
ただ、あらゆる社会や組織は、個々人に対して構造的に影響力を及ぼす存在である(これを、政治社会学の世界で「構造的暴力」と呼ぶが)。これを理解したうえでなお、社会や組織の持つ一定度の調整機能に関してはこれを期待しても良いと思うし、個々人の持つ自由はその調整能力に任せて、精一杯開花しなければならないのだと思う。
また一方で、個人が自由を主張しないことを良いことに、社会や組織は無闇に調整能力を発動させてはいけない(権力があるがゆえに、自制的に振舞う必要がある)ということも重要である。

またいずれかのタイミングで、このブログでも、自由主義・共同体主義に関してはより深く考察を進めたいと思います。

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自由主義と共同体主義(1/2)

政治学の永遠のテーマのひとつに、「自由主義」と「共同体主義」の議論がある。「××主義」なんていうとそれだけで、なんだか古臭く感じられる議論ではあるかも知れないが、実は、つい最近のイラクにおける日本人人質事件も、まさにこのテーマと密接に絡むものである。個人の自由の希求と、共同体による抑制と、両方は並び立たない。

僕自身も、政治学徒のはしくれとして、この問題意識に対してあれこれと考えていたことも有りましたが、今回のブログでは、この問題をざくっと、取り上げてみます。(ちなみに政治学上の永遠の議論には、「大きな政府vs小さな政府」議論や「直接民主主義vs間接民主主義」議論などがあります・・・)
まずは、言葉の説明から。

◎自由主義(Liberalism:リベラリズム)
自由主義とはその言葉の通り、「社会に生きるすべての構成員が、他者に危害を与えない限りにおいて、自らの意思によって、自由に発言・行動できる」(J.S.ミルの定義より)という思想である。これは裏を返せば、国家や集団による、個人への過度な圧力や指図はこれを認めない、ということでもある。
日本国憲法でも職業選択の自由、思想信条の自由、婚姻の自由・・・とあり、「なんだ、当たり前のことじゃないか。これ以外に理想の社会ってあるの?」とすら考えてしまうわけだが・・・。

◎共同体主義(Communitarianism:コミュニタリアニズム)
自由主義と対を為すこの思想では、上記のような自由主義のあり方について、次のような疑義を示している。「自由主義社会における人間像は、特定の共同体の文化や伝統、慣習から切り離された、いわば『原子(atom)』のよう」であり、こうした個人は、ややもすれば「共同体内における自己の有り方を切り離して、己の幸福のみを追求すること」(=負荷なき自己:“Unencumbered Self”と批判される)を目指してしまう恐れがある、と。
そこで共同体主義者は、個人と共同体の密接な関係構築を強調する。すなわち、共同体とは個人にとって「所与」のものであり、個人の人格や人生設計を考えるうえで捨象できないものだ、と。

今日ではどちらの思想が優位なのかはよく判らないが、前者(自由主義)は、ミルやベンサムが主たる論者である。一方、後者(共同体主義)は、A・マッキンタイア、C・テイラー、M・サンデルが自由主義批判というカタチで主張している。
また、自由主義はJ・ロールズ以降、リバータリアニズム(完全自由主義)が派生する。これは、R・ノージックやハイエクらが中心になって唱えたのだが、「他の自由を侵さない限りにおいて最大限の自由を認めるべき」という、自由を至高の価値に置いた思想である。この思想のもとでは、国家の役割自体も個人の自由を助長・促進するためにのみ存在し、最小限の機能しか必要がなくなってしまう。

理想の政治形態など、有史以来存在したことはない。が、それを考えるヒントは、日常の議論の中にも詰まっている。自由主義と共同体主義、この2つの考え方をベースにもう少し見て行くことにする。

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