« March 2004 | Main | May 2004 »

April 29, 2004

ATMに「待たせ時間表示」機能を!

どうやら、ゴールデン・ウィークに入ったらしい。お決まりの光景だが、銀行のATMから、郵便局から、、とんでもない大行列。

イラチな自分は、がんらい、行列に並ぶことが嫌いなのだが、それ以上に「行列をつくる・行列の原因になる」行為はもっと嫌いである。ATMなんかで、何分も掛かりそうな作業をするときには、途中でその作業を分割し、再び列に並んで再後尾からやり直す。後ろのひとたちの目線が気になってしょうがない、小心者なんです。。

ときたま、ながーい行列の原因となってはばからない人物も見かける。『あ、この人のせいで明らかに回転が遅くなってる!』という人物である。

ものすごい束の通帳をひたすら、記帳し続けるひと。入れたり・出したり・また別の動作をしてみたり・・・なひと。
そういう人も居れば、逆に一瞬で作業が終わってしまうひとも居る。「作業が早いひと専用」ATMと「作業が遅いひと専用」ATMに分けてみてはどうか?さもなければ、機械の前に立っている時間を表示し、誰が時間を長く掛けているのか、待ち行列から一目で判る機能を付けてはどうか?

『ただいま、××分経過中』なんて、電光掲示板がチカチカするATM。こわーっ。

そりゃ、機械を扱うわけですから、多少のリテラシーの差だってありますよ。でも、あんまり長く待たせるのもいかがなものか・・・・・・なんて思う自分は、せこせこ時間を気にする、嫌な現代人なんですかねえ??

| | Comments (1) | TrackBack (0)

「ブルース・ブラザーズ」

代々木ゼミナール小倉校裏手の運河沿いに、ひっそりとたたずむバー「もぐらのサルーテ」。
予備校生だった僕の昼御飯は、この店のハンバーグ定食と決まっていた。

人気のない薄暗い店内に、大きなスクリーン。浪人生であふれかえる予備校の食堂で御飯を食べるのが嫌いだった僕にとって、やっと発見した「自分だけの空間」、唯一のオアシスでもあった。

昼時なのに人気がなく、スクリーンにはひたすら誰も見ないアメリカン・オールドムービーが淡々と流れていた。
ふっと、カウンターごしの棚先に見つけた映画が「ブルース・ブラザーズ(Blues Brothers)」。
いわずと知れた、奇才ジョン・ランディスの名作中の名作。僕はこの映画、最低100回は見て、正確に500回は笑っただろう。そんな一作。

人生のあらゆる覇気を何処かに遣り捨て、孤独な自分を哀れみ、世を恨み、そして破天荒に憧れながら、せいぜい授業をバックれて門司港やら下関に逃げるのがせきの山だった僕の暗黒時代。映像の中のジョン・ベルーシとダン・エイクロイドは、僕の破天荒願望を代行してくれる、「心の共犯者」にも感じられた。

もう、台詞ひとつひとつ、こまかい仕草ひとつひとつまでが、観ている者の心に引っ掛かりを作るように計算されつくした一作。どのシーンでも休ませてくれないなんて、こんな映画、アリなんだろうか??

昼時の「もぐらのサルーテ」では、来る日も来る日も、同じ映画ばかりをリクエストした。ブルース・ブラザーズ、アメリカン・グラフィティ、スタンド・バイ・ミー、セント・エルモス・ファイヤー、、、九州のドブ河の片隅で、まだ見ぬ遠い国・アメリカに憧れを抱かせた作品たち。一年後に来るであろう受験に脅える情けない子羊も、映画を見るときだけは、自由を取り戻せる。

それからはや、10年。僕は何が変わったんだろう。何を得てきたのだろう。
あの頃、迫り来る受験から逃避したいと思った感覚、孤独に襲われて死にたい気持ちになった日々が、いまとなってはとても懐かしい。否、実のところは正確に思い出すこともできない。あの頃、外の世界の誰かとつながりたくって、狂いそうだった魂は、いまではすっかり救われたのだろうか?

      「不自由と嘆いてる、自由が此処に有る」(The Yellow Monkey)

・・・教えてくれよ、ベルーシ。

BluesBroth.JPG

| | Comments (2) | TrackBack (0)

April 28, 2004

自民党への就職!?

リクナビ:自由民主党本部

思えば、僕の就職活動時代なんて、企業宛に手書きでシコシコと葉書をしたためていたものだ。折りしも就職氷河期。手にマメを作っていた日々すら懐かしい。
・・・しかし、すごいね、最近のインターネット就職市場ってえ奴は。

「新時代ニッポン創造空間。豊かで生きがいの持てる日本、そして平和な世界をつくるために、あなたもともに働きませんか? 」

こんな文字が普通にフロムAなんかに踊ることなんて、まず無いだろう。平和には僕も大いに賛成だが、そんな職場なんてあるのか??
でも、次の瞬間、全て合点がいった。

「ジユウミンシュトウホンブ・自由民主党本部」
「団体・連合会/その他サービス 」

・・・なるほど。。
いまの学生さんは、ふつーーにリクナビで調べて、こういう『会社』を就職先候補にすらーーっと入れてしまうのか?
なんとも、楽しい時代になったではないか!

| | Comments (0) | TrackBack (1)

April 27, 2004

「客いじり芸」の名人

「『客いじり芸』は芸として認めんぞ!!」と言わんばかりの勢いで、昨日のコラムを綴ってみたが、よくよく考えれば、僕にも大好きな客いじり芸人というのは存在する。というわけで、今回は客いじり芸の名人をば取り上げてみたい。

[客いじり(名)]-お客さんを舞台に上げて、お客の面白さに付けこんで笑いを取る行為、である。

まずは、マギー司郎。
マジック・奇術絡みの芸は全般的に、お客さんのリアクションと双方向性が命だと思う。とりわけ、マギー師匠はあの朴訥さとマジックの単純さ(もちろん計算づくだが)を以って、お客の芸に対するハードルや声の掛けにくさの気負いを軽減している。
WAHAHA本舗の梅垣義明の場合、あの豆を飛ばす芸でお客の心をがっちり(?)とキャッチしている。やはり、多少の低俗っぽさは芸には必要なのだということを解らせてくれる。
そして、ボクが敬愛してやまないのは、ケーシー高峰。いや、ケーシー師匠。
このひとは凄い。いまでは、正月か年末くらいしか医学漫談を見ることはなくなったが、あれほどお客さんを上手に扱うのは彼くらいのものだろう。お客を病人にしたて上げ、また指されたお客自身も病人になった自分を嬉々として演じてしまう。さすがだ。

いずれの客いじり名人にも言えることは、自分の世界(得意な領域)を持った上で、客いじりを完遂している点である。マギー師匠のマジック、梅垣師匠の豆飛ばし、ケーシー師匠の医者漫談。いずれも、その世界のパイオニアではないか。
だからこそ思うのは、客いじり芸は難しいということだ。そうとうに確立した個性がない限り、下手な客いじりはただの学級会のお笑いに堕落してしまう危険を持つのではないだろうか。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 26, 2004

「客いじり芸」に物申す!

お笑いの世界では、素人と玄人の境目が無くなってきたように思う。

昔は確固たるプロ芸人の世界でのヒエラルキーがあり、先達の芸人のお弟子になり、その世界である種の修行を積み重ねて、ようやく表の舞台に立てるようになる、というプロセスがあった。いまは、昨日までクラスの人気者だった子が、別段の訓練を要することなくいきなり表に立てるような時代になった。

逆に言えば、素人の持つある種の日常要素はお笑い感覚に容易に反映できるものとなり、身近な日常を切り出していた落語やコントの世界は虚構や模倣の「非日常」となってしまったのだろう。そして、素人でも面白おかしな笑いを取れる芸として、もっとも顕著なのものが「客いじり」芸だと言える。

僕はこの年齢にして、子供の頃から落語を見るのが好きだった、という特異体質も手伝って、素人同然の芸に対しては極端に拒否感がある。どんなに面白くても所詮は一過性。ビデオで取って3ヶ月後に見直したら、つまらないに決まってる、と思っている。
落語の世界は、ストーリーを愉しむということもあるが、もともと古典落語なんてあらすじもオチも判ってしまっているわけで。落語の場合は、同じ演題を演者の個性の違いで愉しむという要素のほうが強いのではないだろうか。間の取り方や、カタルシスの作り方、みぶり・手振りの入れ方、茶をすすったり・そばを食べたりする所作が個々人によって違う。その違いを愉しめる芸なのであろう。

そして落語の場合には、10年前に演ったものでも、いま見て愉しむことができるという反復性・継続性の高さがある。思うに、プロはアベレージヒッターとしての普遍性を持っているものなのだ。

日常のどの領域においても、手軽で、簡単で、手短に、理解のできるものばかりに淘汰されてきた時代。このお笑いの志向に対しても、あえて、「NO!」を突きつけてみたい気もする。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

April 25, 2004

新選組・各隊士のgoogle検索結果

新撰組幹部隊士のgoogleでのヒット件数(2004/4/25・PM9:00現在)を調べてみた。知名度・人気のバロメーターとして考えてみると、面白いかも知れない。というわけで、結果は下図の通り!

やはり、というか、土方歳三恐るべし。局長の近藤を押さえての堂々1位。そういえば、NHK大河ドラマの山本耕史もハマリ役だと思うしなあ・・・。2・3位の近藤・沖田は想像できたところか。

残った幹部隊士では、芹沢鴨を除けば永倉・斎藤と続く。永倉は試衛館四天王の面目躍如か?ちなみに、組長以外の幹部隊士では、山崎烝が1,910件、島田魁が1,730件だった。

漫画や小説の登場回数に比例してる、といえばその通りだな。というわけで、ほんのお遊びの試みでございました。。

芹沢鴨7,740
新見錦717
近藤勇30,300
伊東甲子太郎3,600
山南敬助2,970
土方歳三33,700
沖田総司25,200
永倉新八7,480
斎藤一5,920
松原忠司635
武田観柳斎861
井上源三郎2,610
谷三十郎737
藤堂平助4,820
鈴木三樹三郎487
原田左之助3,520

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Emerson, Lake & Palmer(ELP)

エマーソン・レイク・パーマー。1972年の来日ライブビデオを見た。
・・・いやあ、、もう圧巻です。

しばしば、キング・クリムゾンやピンク・フロイドあたりと比較されて、その間の抜けたマッチョさや、思想性の無さをボロカスに言われることも多いバンドではあるのだが・・・しかし、未だに根強い人気を誇っていることは確かである。
マッチョで何処が悪い、キースがオルガンの下敷きになって何が悪い、レイクがデブになってて何が悪いってんだ!(爆)

中でも、タルカスの壮大さと単純明快なコンセプトには、ガンッと頭をやられた気がする。想像上の怪物がキャタピラでいろんな魔物を轢き殺しながら一気に駆け抜けていく様には、スカッとするようなすがすがしさ。

日々の喧騒の中で、僕らはいろんな雑多な思念に駆られて、自分自身の観念の呪縛から解き放つことすらもままならない。僕らが生きている上では、「考えすぎの病」みたいなものが、支配的な瞬間がある。

ELPには、あらゆる難しげな思想や観念を蹴ったくって、「しゃらくせえ」と吼えている感覚がある。そこがいいんだ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Remember 1960-1970's

この時代に青春を過ごしておけば良かったな、ともしも羨む時代があるとしたら、それは1960年代末から1970年代にかけてかも知れない。ま、僕は自分の10代もあながち悪くは無かったと思っているが。

この時代の急激な文化・社会の躍動は、それを知らない後進世代の僕には羨望と驚愕ずくめである。
昭和元禄、大阪万博EXPO'70、中津川フォークジャンボリー、あさま山荘事件、日中国交回復、日本が世界第二位の経済大国に、、、と枚挙に暇がない・・・。

1970年代をうらやましく思わせる要素としては、音楽の世界で今なお僕が愛してやまない、フォークソングとプログレッシブ・ロック(俗に言うプログレ)が盛んだったことは大きい。
日本では、GSブームからカレッジフォークを経て、四畳半系・アングラ系と呼ばれるフォークの台頭。海の向こうでは、1960年代のブリティッシュ・ロックを牽引してきたビートルズが、新興のバンド、キング・クリムゾンに蹴落とされたのが1970年であった。

ゴダイゴがかつて「Progress and Harmony」で唄ったごとく、「進歩と調和」はこの時代のまさしく、キーワードであった。「進歩」し続ける世界への適応と、一方で「おり」のように取り残されたものへの「調和」の仕組みが求められる時代。「プログレ」と「フォーク」は、合わせ鏡のようにこの時代を抉ったのだと思えてならないのは、僕だけか?

進歩は美しいが、急激な進歩にはひずみが付きものである。この辺の議論に関しては、以前に書いたブログ、
変わりたい、けど、変われないあなたへをご覧ください。

ともあれ、このブログの中でも今後、フォークやプログレを取り上げながら、何かいまの時代との共通項だったり、違和感だったりを読み解くヒントを自分なりに書き記していく実験ができれば、と思っています。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

「家族ゲーム」

夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ....

kazoku_game.JPG

・・・もう、気持ち悪いったら、ありゃしない。
父親の珍妙な性癖、いい年した母親の色気、兄のやるせなさ、主人公の卑屈な笑い、、、そして家庭教師の松田優作。。間違いなく、この気味悪さと間白の妙は、邦画でもナンバークラスに入るだろう。

このドラマで描かれる家族像は、全編わたって静やかで、変化に乏しい。それがいい。この映画での家族が「静」だとしたら、同じATG映画「逆噴射家族」での家族はまさに「動」。

逆噴射家族では父親役の小林克也が並々ならぬイニシアティブを発揮し、すんでのところで家族の崩壊を救った。一方、家族ゲームでのその役回りは、三流大学の学生家庭教師・ヨシモトだ。崩壊しそうなもろい絆をつなぎ、何やら大団円への萌芽が見えそうなクライマックス。しかし、そんな簡単にはカタルシスには至らない。

↑の写真の風景は、何処かに遣ろうにも、心に焼き付いてしまう。やられてしまった感のある一作。

| | Comments (1) | TrackBack (17)

April 22, 2004

ATG映画の功罪?

僕は、ATG(日本アート・シアター・ギルド)の映画が大好きである。とはいえ、20代の僕にとって、ATG映画の全盛は年齢的には後追いで、現在ではビデオを借りて来るくらいしか叶わない。

ATGの映画は俗に「1000万映画」などと言われ、低予算で実験的な作品を数多く世に出していることで知られる。低予算がゆえに粗製濫造が目立ち、批評サイトなどで叩かれることも決して少なくないのだが、しかし、キラリと光る作品もまた数多い。

「青春の殺人者」「太陽を盗んだ男」「家族ゲーム」「逆噴射家族」「ガキ帝国」...ATG作品の中には、なにか、息をするのも詰まりそうになるような、妙な緊張感で溢れている。

このブログの中でも、僕の好きなATG作品を色々と取り上げていけたら、と思っている。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

ルサンチマンはカネになる、の巻

ルサンチマン(ressentiment)-「恨み」と訳されるニーチェの造語である。
ちょっと前までは哲学や思想をかじった人間が多用した言葉の代表格であったと、僕個人は思っている。
(関係ないが、哲学・思想かじりの人間がよく使う言葉には他に、「ポストモダン」「脱構築」「エピステーメー」「レゾン・デートル」「ディスクール」なんてのがある。こういう言葉がもっと闊歩したら、世の中はもっと面白くなると思うのだが・・・)

話を本題に戻すが、ルサンチマンはカネになると思う。ここでは、ルサンチマンの正確な定義は別に譲る(これ自体は面白いテーマなので、いずれニーチェに関して本ブログで書いていきたいが)として、ルサンチマンを取り巻く商売は
とにかく儲かる。敢えていくつかに分類してみると、、

①ルサンチマンを抱える人に対して、そのルサンチマンを解消する方法を提供すること
②ルサンチマンを抱えた個人どうしが連帯してある磁場を作り、そこでモノを流通させること
③ルサンチマンを抱えた個人がなにがしかを表現することで、興味を持つ人々の賛同を得ること

①は、「××解消産業」とでも言おうか。実社会でまったく異性にもてないオヤジやオバチャンが若い異性に優しくもてなしてもらえる場所に出向いてみたり、不安を抱えたひとに「あなたの未来はこうです」なんて占いをやってみたり。まあ、ひとの不安や恨みの気持ちの弱さにつけ込むのは、商売の基本なのかも知れない。そういえば、鶴見済の「完全自殺マニュアル」は、ソリューションを提供するノウハウ本としてきわめて面白い。

②は、お金にはさほど反映されないケースも多いが、「××運動」のようなものに形を変えて発現することがよくある。このアパシー(無関心主義・政治的無関心)のご時世に、運動をやろうという殊勝な人間もまあ少ないが、かつての労働組合や学生運動みたいなものが華やかなりし頃は、けっこうな集金能力を持っていた。

③は、面白い。尾崎豊だったり、筋肉少女帯(大槻ケンヂ)だったり、アーティストにはこの手が多い。
ほかに例をあげれば、少し前に「ひきこもり」が社会現象になったとき、その代表格として勝山実さん(「ひきこもりカレンダー」著者)が登場したが、彼はまさに、ルサンチマンを上手に売りものにまで昇華させたという意味で才能がある(僕は彼が登場するイベントにも行ったことがあるが、ひきこもりになってしまった自分という存在を、実に興味深く聞かせる才能があり、凄い人物だと思う)。

儲かるルサンチマンと、儲からないルサンチマンがある。

そのメカニズムは実にシンプルで、己の抱えるルサンチマンを外に出せるか、出せないかの違いだと思う。儲かるルサンチマンは、巧みに自分のルサンチマンを表出し、他者の関心を得、ときに賞賛や新たなネットワークづくりに向かわせることが可能である。
前述の勝山氏は、ひきこもり「ブーム」でワイドショーに出演した際に、堅物コメンテーターや自称・ひきこもりカウンセラーのおせっかいオバサンなんかに、「ひきこもりはそんなに単純なことじゃないんですよ。じゃあ、僕がこれから楽屋に引きこもりますから、僕を楽屋から外に出してみてください」と答えたが、あれには快哉を送りたい気分になった。そして彼自身は、「ひきこもり」を売りにすることで「ヒキコモリ」を卒業した。
大槻ケンヂは、自身特にモテるわけでも、成績が優秀なわけでも、スポーツが万能なわけでもなかった。その劣等感を口にし、奇声をあげ、特異な格好をしてステージに立ち、若者のカリスマになった。そしていまや、美女とフライデーされるモテっぷりである。

かくいうわたくしも、劣等感・弱さ・恨み・ルサンチマンが服を着て歩いているような人間である。
でも、だからこそ、自分のどのルサンチマンが売り物になるかと思うと、逆にウキウキする気持ちになり、たまらなく幸福な想像(妄想?)に突入してしまう。

・・・ありがとう、ルサンチマン。

| | Comments (3) | TrackBack (0)

April 18, 2004

官僚制、何処が悪い?(2/2)

近代国家の発展において、官僚の果たしてきた役割は決して見過ごせない。しかし同時に、官僚制には構造的な弊害も認められるのである。一例を挙げれば・・・

・セクショナリズム、責任逃れ
・先例主義、形式主義(文書中心主義)、柔軟性の欠如
・市民・大衆社会からの心理的乖離(一部エリートによる独善化)
・繁文縟礼(はんぶんじょくれい:手続きの面倒くささ)

などなどである。とくに、アメリカの社会学者ロバート・マートンは、目的を効率よく遂行するために設けたはずの形式性・合理性が、かえって定型的な官僚の行動を産み、新たな状況に柔軟に対応できなくなって能率が低下する様を「官僚制の逆機能」と名づけた。

官僚制のまずさは他にもある。たとえば、官公庁におけるたいていの報告文書は決定権を持たない末端の官僚が作成するのだが、それがいくつもの上司のチェックを経て、決定権を持つ上司まで到達したときに、上長は自分のところまで到達したというプロセス自体に正当性を感じてしまい、内容が精査されることなくそれが承認される、という責任所在の不明確なシステム(稟議制の悪弊)が存在したりする。

ここまで官僚制の悪弊を見てきたが、では、どうすればいいのか?いささか平板なアイデアではあるが、やはり、「外部(民間)の知見の導入」「緊急課題に関する時限的・超組織的な取り組み」「顔の見える役人づくり(いまでも、一部でスター官僚は居るが)」「政治リーダーシップの強大化」、、などが望むべき姿であろう。そして勿論、官僚の持つ中立性は重視されねばならないし、機能的で緻密な処理能力の高さは維持してもらわなければならない。

そしてもう一つ。マス・メディアに対して言いたい。
噛み付く相手としての官僚を見つけるのは大いに結構かも知れないが、このままでは公益のために働こうという者の意思をも挫くことになる。いまの小学生の成りたい職業ランキングを見てみるといいが、政治家や官僚になりたい、などという生徒は皆無になってしまったように。

官僚制。もちろん、問題は様々にあるのだろうけど、僕らは「良い市民」として暖かくこれを育てることも重要ではないだろうか。。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

官僚制、何処が悪い?(1/2)

今日のテレビや週刊誌で、官僚が叩かれない日は無いと言ってもよいだろう。時代劇で言うと、悪代官か越後屋か、という位、悪の象徴的存在になってしまった感すらある。でも、官僚はなぜ、現代の日本でこれほどまでに叩かれるようになったのだろうか?今回のブログでは少し、官僚にまつわる問題を掘り下げてみたい。

官僚制とは、「近代以降の肥大化した国家を機能的・能率的に運営するための管理制度」と言える。
19世紀初頭の欧米での官僚制のあり方としては、当初は「スポイルズ・システム(猟官制)」が採られていた。これはすなわち、大統領や首相など政治のリーダーが入れ替わるごとに、自らの人脈で官僚人事を一新させるやり方である。その後、肥大化する国家を支えるためには政権交代ごとの入れ替えよりも、より専門的・能率的に事務処理をするために、「メリット・システム(資格任用制)」が採られるようになった。これは、中立的な方法により、資格試験(文官の登用試験)の合格者を官僚として任命するというシステムであり、今日多くの民主国家はこの仕組みで政治が運営されている。

M・ウェーバーは、官僚制の特徴を次のようにまとめている。

①法律で明確化された職務・権限をベースにした、機能的な分業・協働システムを有する
②組織内の命令・指揮系統が、階層的な構造のもとで秩序づけられている
③官僚は専門的な資格を有した者から構成され、公務を専業としている
④事務処理全般が文書を中心に行なわれ、職務や責任所在が明示されている

こうして見てみると、国家が大きくなり、行政機能が複雑化すればするほど、官僚制のメリットが大きいように思われる。ウェーバーは官僚制を「近代国家の合法的な権力支配において、最もマッチしたシステム」と位置づけていたくらいである。
・・・では、一体、官僚制の何処が悪いのだろうか??

| | Comments (0) | TrackBack (0)

“リュックは何処に消えた?”-トートバッグ覇権主義の謎-

旅先での徘徊でリュックサックに勝る持ち運び容器は無い、と個人的に思う。
リュックだと両手が自由になるから、旅先のあらゆる珍しい文物に容易に手を伸ばせるし、重いものを入れても手で持つよりもはるかに負荷に耐えられる。しかし、実のところ僕はトートバッグばかりで、リュックをひとつも持ってない。

ちょっと可愛い目で値ごろのリュックはないものか、と気まぐれにデパートに行ってみたが、これがまた、無いんだな・・・。そこそこメジャーなブランドが、豊富なバラエティで揃えてあるのはトートバッグばかり。そういえば、男性向けトートバッグは何故にこれほど市民権を得るようになったんだろう??

ちょっと前のトートバッグはキャンパス・バッグ的なカラーが強く、女子大生あたりが教科書やノートを突っ込むのに使う、専らフェミニンなアイテムだったと思う。
男性におけるトートバッグ人気爆発の立役者となったのは、エルメスのフールトゥの影響が大きいのではないだろうか。丈夫で、色のラインも多くて、女性でも男性でも使える。そして何より、「HERMES」という高級感。

hermes.JPG


そして今日、トートバッグはこれほどまでに市民権を得たのだと思う。トートバッグがこれほど流行ったのは、キラー商品としてのフールトゥの力も大きいけど、環境的にもラッキーだった(トートバッグが求められる環境が醸成されていた)のだと思う。思いつく要因をざっと挙げてみても、

 1.モバイルパソコン人口の拡大
 2.紙利用の変化(紙媒体の主流がB4・B3からA4・A3へと移行)
 3.女性との共用可能性の高さ
 4.多くの企業でのカジュアル・デーの導入

リュックだと持ち運びにくいモバイルパソコンも、トートなら楽々入ってしまう。A4サイズの用紙を折り曲げてないと入らないリュックも、トートなら折り曲げないでそのまま入る。そもそも女性に利用人口の多かったはずのトートなので、男性との共用も容易。また、多くの企業でカジュアル・デーを導入することが珍しくなくなったが、トートバッグならばある程度のフォーマルさも担保できる、というわけで。。
(※もちろん、リュックにPCを入れて持ち運ぶ人も、女性とリュックを共用する男性もいらっしゃるでしょうが・・・)

・・・ともあれ、外れているかも知れませんが、諸般の理由のもとでトートバッグはいまや、多くのブランドがこぞってお洒落なものを揃えるようになっている。でも、消費者とは気まぐれで残酷な生き物でもある。いつまた、別なブームが起こるかは解らない。ひょっとしたら、カンガルーのようにお腹で支えるバッグができるか、昔はやったウエストポーチが再び流行るか。。

他の誰もやらなくなったときに、敢えて残ってやり続けるのが、「一人勝ち」の定石だと思う。それを踏まえて、声を大にして言いたい。

「ブランド企業の皆さーん!リュックサック、つくり時ですよーー!!」

| | Comments (0) | TrackBack (0)

返信:ブランド・ジャパン2004は、ネットブランド・ジャパン

マーケティングとは?ブランドとは?:ブランド・ジャパン2004は、ネットブランド・ジャパン

>しかし、ここで一点注目したいのは、今回のブランド・ジャパンは、調査方法がネットリサーチに変更になったという点です。
>これまでもネットリサーチと郵送調査を併用してきたそうですが、今回はネットリサーチだけに絞ったようで、ネット関連ブランド、若者系ブランドがより高く出るのは当然の結果と言えます。

なるほど、すっかり見落としてました。ネットオンリーの調査だったんですね。。(汗
yossyさんのご指摘の通りで、一般的には「調査」という名前が付けば、極めて客観的で公平なように一見思われます。しかし実際には、「誰に聞いたか?」「いつ聞いたか?」「何を使って聞いたか?(郵送・ネット・訪問・・・・)」が大きな要素なんですよね。そして何よりも、「どのような調査項目で聞いたか?」が調査の結果に対して、決定的な影響を及ぼすものなんですよね。。これまた勉強になりました。。

>ブランド・ジャパンの評価はブランドの「鮮度」を測定する指標として活用するのであれば有用であると思います。
yossyさんのアイデアはとても面白いですね。そういえば、一昔前には「ブランド」という言葉は単に、シャネルだヴィトンだ、といったラグジュアリー・ブランドを指していたような気がします。しかしインターネット時代以降、新興のベンチャー企業などでも同等かそれ以上のネームバリューを簡単に手にし、巷間の注目を得られるようになったんですよね。
それにしても、ネット企業への評価は、下駄を履かせすぎている気もしますけどね・・・。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 17, 2004

ブランド評価2004-見えてきたテレビメディアの凋落-

Branding Project--ブランディング・プロジェクト--

日経BPコンサルティングが,一般の消費者とビジネスパーソン合計4万2000人へのアンケート調査から延べ1500ブランドを並列に評価した「ブランド・ジャパン2004」(2003年11月実査)の結果をまとめ,本日(2004年4月13日)報告書を発行すると同時に,日経ホールで「ブランド・ジャパン2004発行記念セミナー」を開催し概要を発表する。

 これによると,消費者が評価するコンシューマー市場調査(BtoC調査)では,1年前の前回調査で第2位だった「ディズニー」が今回の首位となった。前回トップだったソニーは第2位である。第3位は前回5位の「トヨタ自動車」,第4位には前回40位の「YAHOO!」が登場した。また前回と比べてブランドの総合力指数が最も増加したのは「vodafone」,次は「google」だった。

=============================================
いやはや、トヨタの強さはもはや折り紙つきなのだろうけど、BtoC市場での外資勢の優勢には目を見張るものがあります。
Disney、Yahoo!、NIKE、Windows、Starbucks、、、言われてみれば、これらのブランドに接触しない日なんて無いですもんね。

BtoC市場ランキングから見えて来る兆候として、「テレビメディアの地位の相対的な下落」が言えるのかも知れません。Googleも楽天も、テレビメディアでの露出はほとんどと言っていいほどありませんが、双方とも、今回のランキングでは大きく順位を上げてきています。また、テレビでの露出が高いはずの飲料・食料系のブランドが軒並み順位を落としていることもランキングからうかがえます。

そういえば、最近のテレビの視聴法のひとつとして、テレビを点けながらチャットやBBSでの実況を行なうことも、もはや珍しくなくなってきました。ある調査によると、テレビをみながらのインターネット利用は約7割で、うちインターネットのほうの割合が多いのは約6割、という結果も出ています(※データ参照)。テレビで見た風景やタレントの一挙一動を、2ちゃんねるその他の掲示板なんかで実況しながら視聴する。これは、テレビにネットが依存してる構造なのでしょうか?もしかしたら、インターネットに依存しているのはもはや、垂れ流され続けるテレビのほうかも知れませんね・・・。

※参考データ
インターネット利用中のテレビ視聴について

| | Comments (0) | TrackBack (1)

April 15, 2004

サービス業におけるリスク管理

1つ前のコラムで、ラスベガスの豪華ホテルにおける停電事故をとり上げた。
ラスベガスという街は電気を売ってカネにしている、と言っても過言ではない。この手の停電事故自体も信じられないことなのだが、それ以上に、ホテル側の対応は信じられないほど拙劣だった。

おそらく、ホテル従業員の多くは、事態がすぐに収束するものと楽観視していたのではないだろうか。停電は僕らがカフェを愉しんでいた夜中の25時くらいに発生し、あたりは真っ暗になった。が、そのとき僕らには何らかの演出なのかとすら思えていた。しかし、朝になってもそれは収拾していなかった。

朝を迎えた僕らにも事故の説明はなにひとつなく、ただホテルの1階で、お姉さんがミネラルウォーターを無料サービスで配っているだけが、かろうじての彼らの「サービス精神」に見えた。

昼過ぎにホテルに戻っても、事態は解決して居なかった。むしろ、停電箇所は広がり、ますます混乱の度合いは増しているようにも思えた。フロントは、宿泊客で溢れていた。

Bellagio7.jpg

電話とエレベータは通じていた。共用施設(インフラ)から先に供給しようというのかも知れないが、それ自体は正しい処置だと思う。しかし、一番の問題が依然、残っていた。それは、「アカウンタビリティ(accountability)」である。

英語で「責任」と言う単語は他にもあるが、「responsibility」は“respons”(=返事)をする責任、つまり自己が他者に求められる「返事」なのに対して、「accountabilty」は“accont”(=計算・会計結果)を報告する責任、すなわち「(数字などの)客観的な証拠を使って他者を納得させる責任」なのである。

ホテル側は、何故事故が(原因)、今後どのような見通しが(見解)、代替措置はどう考えるか(安堵)などのあらゆる情報を提供し、アカウンタビリティを果たすべきであったと思う。とりわけ、サービス業は消費財と違って、接客に当たる従業員の一挙一動が売り物になる。また、顧客の側も経験価値や口コミを重要な評価尺度にしている以上、その満足と信頼をつなぎ止めるために、細心の注意を払うべきではなかったろうか?

もちろん、中途半端に情報を開示して、顧客の側に余計な不安感や過剰な安心感を与えるのは得策ではない。しかし、初動の段階で取り組み方針を迅速に打ち出すことができたなら、却ってホテルへの信頼を増すことができたのではないか、と思うと残念な感が残った。

<参考ページ>
日本リスクマネジメント学会理事長講演「危機管理とリスクマネジメント」 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

ラスベガスで大停電、の巻

一体、こんなことがあるのだろうか。ラスベガス屈指の豪華ホテル、ベラージオ。

Bellagio2.JPG

原因不明の停電は、客室やカジノはもちろんのこと、噴水アトラクション、シルク・ド・ソレイユの人気エンターテインメント「O」から、高級ブティックに至るまで、あらゆる設備を暗闇に包み込んだ。

人気のないスロットマシン、虚しく広がるカジノ・テーブル。

Bellagio4.jpg Bellagio6.jpg Bellagio5.jpg
(※明るく見えるのはカメラのストロボ効果で、実際には薄暗い館内でした)

何もない砂漠のオアシスに、人寄せのために造られた人工の街、ラスベガス。
電気のない豪華ホテルは廃墟に等しく、林立するスロットマシンはただの巨大な貯金箱だった。

ただ残された巨大な模造物は、僕らの欲望をあざ笑っているかのように見えた。
欲望の電車は、時折、神様の手痛い事故に遭うのかも知れない。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 11, 2004

「カジノ」

マーティン・スコセッシの描く男は、どこか悲惨なヒロイックさに包まれている。

casino.JPG


70年代のラスベガスの様子を映画化した3時間の大作では、タクシードライバーで主演したロバート・デニーロが、カジノの経営者を好演。緻密な調査をベースに経営手腕を発揮する彼は、マフィアのボス達からの信頼を後ろ盾に次々に成功への道を登っていく。ロバート・デ・ニーロ、シャロン・ストーン、ジョー・ぺシの3人の人間関係を軸に、デニーロがだんだんと破滅への道を転がる姿は、じつに生々しく描かれています。

作品の中でデニーロの経営するカジノでは、イカサマが発覚するやカジノ裏へ連れ込みハンマーで手を潰したり、半殺しの目に遭わせたり・・・と、暴力シーンがふんだん。しかも、これは実話をもとにしていたというから、なおさら驚きです。

作品終盤でデニーロが、いまのカジノは大企業の資本が進出し、「ディズニー・ランド」と変わらない、と嘆きます。なるほど、老若男女を問わず誰でも入れるようになったカジノには、一部にとってみれば、もはや秘め事としての趣きは感じられないかも知れません。それでもいま、この街が世界中から人を集めて止まないのはやはり、その70年代を経て「街としての踏み絵」を踏んだからではないでしょうか?(※これに係わる議論は面白いので、いずれブログ上で展開します)

時は過ぎ、人は移り、時代は変わる。街や人は意外に短い期間で、とてつもない変貌を遂げることができる。映画「カジノ」はこっちの都合におかまいなく、残酷に変わり続ける社会に対する、スコセッシなりのレクイエムなのかも知れません。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

April 08, 2004

かどぅ的・オトナ論(雑感)

>子供の頃には確かに未来があった。
>大人になるって、未来がなくなっていくことなの?
>選択肢がどんどん狭くなってる気がするのは、自分で狭くしてるんでしょうか。

クレしん映画評へのコメント、ありがとうござます。

ユーミンの唄にも、「小さい頃は神様が居て」という歌詞があります。子供の頃に見えたはずの神様が、大人になると見えなくなるという例えに代表されるように、大人になるということにはある種の喪失感を伴っているように感じられるものです。

でも実際には、単純な子供・大人の二元論ではないんですよね。子供でも見えないものがあるし、大人でも見えるものがある。見える風景は自分で規定するものだけど、ことの本質は見ようとする意思にむしろ有るのではないでしょうか?

映画の中でしんちゃんは、「オラ、大人になりたいもん、こんなキレイなおねえさんと付き合いたいもん」という台詞を吐きますが、これって、大人だからこそ獲得できることに対しての期待感ですよね。本来、大人になるということは、自分の中に規律と審美眼を蓄え、物事の真贋を見分けられるようになるということなのかも知れません。そして、真贋を見分け、分別を付けた大人にこそ、「御褒美」としての獲得が認められるものではないでしょうか。

大人になるから喪失したのではなく、子供の頃に抱いていた何かが、代替あるいは変質しただけではないでしょうか?本来的には大人のほうが獲得できるものは多いはずでは?、と僕は思います。

説教じみてて恐縮ですが、努力しないで獲得しようなんて、子供だけが思っていることかも知れません。大人は、自分の努力に相応するだけのreward(御褒美)が期待できる存在なのではないでしょうか?

だから、大人は、やめられない。

| | Comments (4) | TrackBack (0)

「のど自慢」

<最低5回は見た映画:その②>

nodo.JPG

わが町に「のど自慢」がやって来た!群馬の小さな町は沸く。
物語は「のど自慢」大会を巡っての、わずか三日間の出来事。夢に挫折しかけた売れない演歌歌手、女房子供を抱えて失業するも焼き鳥屋修行に励む中年男、喧嘩を繰り返す母と姉にうまく想いを伝えられない女子高生、、それぞれの人生が一瞬の花舞台に交錯する。

劇中惜しげもなくふんだんに使われる楽曲もまたいい。「花」「ジョニーへの伝言」「また逢う日まで」・・・多くのひとの想いを託して、歌は流れる。

涙したくなるのは、映像の力か、楽曲の力か。否、そんなものはどちらでもいい。
何処か既視感のある情景、帰ってみたい故郷、映画とはペーソスだ。
そんな想いの虜になりたかったら、この作品。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」

<最低5回は見た映画:その①>

クレヨンしんちゃん「嵐をよぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」

otonateikoku.JPG

2001年。宮崎アニメ「千と千尋の神隠し」があらゆる映画賞とメディアの話題をかっさらっていった陰で、もう一つのアニメが密かなる評判を獲得していた。
-クレヨンしんちゃん「嵐をよぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」-

宮崎アニメは世代を問わず、成熟した映画ファンに広く受け入れられる普遍性を獲得している。一方で、クレしんアニメは対象年齢が幼稚園~小学校低学年向けというところか。「クレしん」というタイトルとあのふざけたイガグリ頭を思い出すだけで、僕らの食指はパタと動かなくなってしまうだろう。

公開された時は折しも、2001年。キューブリックが未来を描いたあの作品を引け合いに出す間でも無く、世はまだ見ぬ未来・21世紀への言い知れぬ恐怖心と、激動だった20世紀への懐古に溢れていた。そしてこの作品はまさに、その頃の僕らが一様に抱いていた、ある種の懐かしさや郷愁への警句であった。「ノスタルジア」とは、そもそもは病気を指す言葉だったのだ、と痛烈にわからせてくれた。

過去は美しく、未来は必ずしもラクじゃない。それでも、僕らはオトナになることから逃げちゃいけない。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

April 07, 2004

アリV要らズ・オーケストラ

ブラコン堂日乗:渋さ知らズ@渋谷クアトロ

前夜はあんまり寝ておらず、昼間は仕事モードだったわけで、いきなりの『ノリ』と『立ち見』に自分が耐えられるか心配でした。行きがけに「アリナミンV」でも買って、とりあえず、体力を回復からだ・・・なんて思ってはいましたが、しかしそれは不要のことでした。

shibusa.JPG

「立ち見」どころか、『ジャンプ見』の3時間。予習も何もしてなかった僕には、彼らが何者かも解ってなかった。けど、ホンモノはホンモノだ。1曲目から、見る見る奴らの術中に嵌っていってしまった。笑った。正確に36回笑ったかも定かでない((C)蓮実)

ドリフターズは仲本工事の俊敏さをイメージづけるために、仲本の出番になったら残りの4人がわざと鈍い動きをする。高木ブーの愚鈍さを際立たせるために、周りは素早く動く。アンサンブルの妙。

渋さ知らズ・オーケストラ。

実力者がやる計算づくのコミカルは、見ている者を安心して耽溺させてくれる。メンタルドラッグ出まくりの夜でした。


P.S.
渋さ★は今日も渋谷クアトロで演るそうで。。いやあーーしばらくは脳内演奏しそうですわ。。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

April 04, 2004

土方らしさ、爆発!

NHK大河ドラマ40年の歴史の中で、幕末は幾度も舞台には取り上げられてましたが、意外にも新撰組じたいをテーマにしたものは無かったんですよね。

しかし、新撰組を題材にするとは思い切ったもんです。NHKも。
なぜって、新撰組に関してはファンという厄介な生き物が有象無象に居るわけで、この人たちの頭の中にある理想像を乗り越えるのは、容易なもんじゃないからです。かくいう私も、小学生時代からの新撰組好き。ファンクラブに属していたことも、修学旅行をほっぽらかして近藤土方の墓参りに行ったのも、懐かしい思い出です。。

その新撰組ファンの中でも、最も手ごわいのは、土方ファンではないでしょうか?
たいていは、司馬遼太郎の「燃えよ剣」を入り口に、理想の土方像が形成されるものと思います。次いで、新人物往来社あたりの土方あるいは新撰組特集や写真集を買い漁り、妄想の限りを膨らませるのです。そして何より、土方歳三は写真も現存していて、これが、江戸幕末の人物とは思えないくらい、おっとこ前なんです。ここがポイント。

hijikata.JPG


でも、今日の新撰組を見ている限り、土方はけっこういい線行ってるなんて思いました。ファンの中では、栗塚旭さんの演じられてた土方が根強く圧倒的な人気を博してますが、それでも、山本耕史さんもなかなかどうして。

今後の土方、そして新撰組のあり方がそれなりに楽しみな今回の大河です。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

稼げる学問、稼げない学問

二十年は経とうかという愛車・ミラージュで先生は現れた。ちょっと急な坂道だとエンストしちゃうくらいの年代モノだ。

大学の政治思想ゼミの同窓会が先日行なわれたが、変わらず清貧を貫かれている先生の姿には心からの敬意の念を感じる。国内外の政治思想学会の重鎮でいらっしゃるのに、少しも近寄りがたい居丈高さや威圧感を感じさせない。「オープン・ドア」なところも、昔のままである。

大学の教授に対する考えが変わったのは、某大学を訪問したときだ。派手な外車に乗り、売れる本を書き、テレビに出ては若い学生たちにキャッキャ言われる。むしろ、こちらの方がいまどきっぽくて普通だろう。

意識されているかどうかは別にして、先生は「清貧」を続けていらっしゃった。淡々と僕ら一人一人のその後の進路や、卒業してからの経験などの顛末に耳を傾けてくださる。

巷では手軽に、気軽にモノゴトを学ぶことが持て囃される。「電車の中で解るマキャベリ」だったり、「経営学で使える、クラウゼビッツ戦争論」だったり、「90分でわかる政治思想」だったり。

だけど、簡単に答えが出ない、解らない、難しいことだからこそ、何年かかっても学びたい。先生を見て、そう思った。
植木枝盛には怒られそうだけど、頑張って「マージナルな知」に少しでも近づきたいです。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

贋物はその努力にこそ、華がある

方々の宿屋で、詐欺を働いては日銭を稼ぐ夫婦がいた。あるときは剣豪を騙ってみたり、またあるときは高名な茶人を騙ってみたり。

詐欺師夫婦は旅の道中、ある宿屋で高名な仏師の名を騙っていつものごとく、いくばくかの小銭を掠め取ろうとしていると、そこに宿の主人が喜色満面で飛び込んできた。
「あなたさまのように有名な仏師様がお越しになるのは、当宿の光栄でございます。つきましてはひとつ、宿泊の記念に仏像を彫っていただけないか」と。

衆人監視の中で、逃げるわけにもいかなかった詐欺師夫婦は、その申し出を受けるしかなかった。
タイミングの悪いことは続くもので、ホンモノの高名な仏師が、同じ宿場の別の宿屋に泊まっているという。どちらかが偽者であることは、これでもう明々白々である。偽者仏師(詐欺師夫婦)と、ホンモノの仏師は、互いに腕を競って疑念を晴らすことになった。

偽者夫婦も、ここで騙りがバレれば、これまでの余罪とともに罰せられることは目に見えている。もう、ただただ必死で仏を彫るしかない。寝ずの彫刻は続いた。

勝負の期日が訪れた。ホンモノの仏師の作と偽者仏師(夫婦)の作。しかし、ホンモノの仏師は偽者仏師夫婦の作った仏像を見て、驚いた。まさに、魂の一作だった。ホンモノの仏師は全てを悟った。

「すんません、騙ってたのは、ワイのほうだったようですわ」

と、言うとホンモノの仏師はその場を立ち去った。

*************************
とある小説だかで昔、このような話を読んだことがあるが、僕はこの手の話が大好きである。
贋物には時に、ホンモノ以上の魂が宿ることがあると信じている。贋物がホンモノ足らんとして、必死に努力し、あがく様には、ホンモノの持つ魅力を凌駕する瞬間があると思えてならない。

今日も何処かで、贋物がその魅力を開花させていないか、と想像するだけでワクワクしてくるのである。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

「自分らしさ」幻想を超えて:平凡を愉しむ器量

ブラコン堂日乗:自分らしさ・・・

TBありがとうございます。

なんというか、この時代、「平凡であることへの恐怖感」みたいなものが、多くのひとびとを悩ませている気がします(小生を含めて)。「自分は何者とも違う、オリジナルな存在でいたい」ということを、過剰に迫られ、自分自身に課すからかも知れませんが・・・。
先ごろ、芥川賞を受賞された若手女性作家の「ピアス某」を読むにつけても、ここまで赤裸々に自己の内面を抉らなければ、人々に「面白い」と思わせられないものか、と愕然としてしまった感があります。

ただ僕の場合には、平凡な日常の中にある狂気だったり、常識人の持つ何かおかしな執着心だったりのほうが、よほど面白く感じるような気がしますが(もちろん私見)。
「自分らしさ」を探せなくても、無用の焦燥感に駆らせないこと、「平凡であることの恐怖心」から解放する方法は無いか、僕自身考える日々ではあります。。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

April 03, 2004

幹事長、美味そうっすね・・・って!?

幹事長のブランチ

美味そうなおでん定食っすね・・・でも、エイプリルフールのネタでしょ??、だなんて思いきや、箸袋にはしっかり、「自由民主会館」。ホンモノじゃーーん!?

昨日深夜の平沢勝栄代議士のバラエティ番組MCも驚いたが、たんたんと定食の写真を撮られている幹事長にも驚いた。さすがは師弟コンビ!!

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「やせ我慢」の美学

安い慰めが求められている時代だと思う。

こんなことを言うと大抵の人から反発をくらいそうだが、少し前で言う「癒し」ブームだったり、「可愛い××」ブームだったりというのは、現代人がプレッシャーや緊張感、ストレスに対して、耐性がなくなってきている証拠ではないか、と思われる。

「かわいそうだねえ・・・」とか「大丈夫?」とか、こんな一言欲しさに、日々生きている。あ、僕も例外ではないっす。

でも、ふっと立ち止まって自分を見直すと、それは根本的で持続的な解決方法になっているのだろうか?とも思う。安い慰めは、安いだけに持続性も短く、反復性は高い。それが病みつきになってしまう所以だ。

この話に結論は無い。極論すれば、安かれ高かれ、自分で自分をドライブ(方向付けとモラール向上)するしか道はないし、何を選ぼうが個人の自由・勝手の世界である。

・・・しかしここで、あえて僕は、「やせ我慢」の道を選びたい、おススメしたい。

ふっと安っぽい何かに走りそうな自分を抑えて、先に来るかも・来ないかも解らない果実が成るのをじっと待つ。待つのは、昨日よりも明日に期待できる心性から来る行為だ。

とはいえ、我慢とは言っても所詮、「やせ」の我慢なわけだから、時には安く流れてみたくなるかも知れない。それもしょうがない(にんげんだもの)。ホンモノはそう簡単には手に入らないから、本物なんだろうなあ・・・。

ともあれ、安物の誘惑に負けそうになったら、まずは3日、やせ我慢をしてみよう。話はそれからだ。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

April 01, 2004

ドラえもん秘密道具の学術調査・・・。

Yahoo!ニュース - 社会 - 共同通信

Continue reading "ドラえもん秘密道具の学術調査・・・。"

| | Comments (0) | TrackBack (3)

« March 2004 | Main | May 2004 »